3)日本国憲法の矛盾
その矛盾は、現実には、誰でも知っている、「魔法の言葉」で乗り越えられてきました。「自衛のために」という一言です。それが、「解釈改憲」です
考えたら、とても不思議なことです。「戦力NO、戦争(交戦権)NO」の日本国憲法が、「自衛」というひとことをいれることで、「戦力OK、戦争OK」に変わってしまう!
「戦力NO、交戦権NO」→「自衛のため」→「戦力OK、交戦権OK」
この論理展開は、「敵性国家の拒絶」によって、「憲法を護れ」と「安保ハンタイ」を両立させた、60年前の安保闘争とそっくりです。
4)憲法改正を提議する
60年前の(わたしの)安保闘争を整理したいという思いで書き始めて、とうとう、日本国憲法に行き着いてしまいました。
正直にいえば、触れたくない主題でした。日本国憲法に触れるというだけで、きっと多くの友人たちが(内心)怒り、軽蔑し、去ってゆくことになるでしょう!
勝手にそんなことを思いました。なかなか書き進められなかった理由です、
しかし、結局のところ、憲法をとり上げなければなないだろう、という方向に気持ちが切り替わりました。
さきほど見た通りですが、日本国憲法には、ふたつの顔があります、「戦力NO、戦争NO」の絶対平和主義の顔と、「戦力YES、戦争YES」の解釈改憲の顔です。
両者が、内容において真反対であることは明白です。それをひとつの器に入れる。ときと状況に応じて、都合のいい方を取り出して眺める、議論する!
「賢い」といえば、そうなのかもしれません。しかし、本質において欺瞞であることは、間違いありません。国家の根本法典が重大な欺瞞に立脚しているということ。そのことが、無意識のうちに、わたしたちの精神を蝕んでいる可能性はないでしょうか?
「真実」や「事実」に対する態度を曇らせている可能性はないでしょうか?
根本において、日本中で「不信」を育てている可能性はないでしょうか?
少なくとも、内心の「自己不信」は否定できないのではないように思います。
(わたしの勝手な思い込みかもしれませんが)これまで憲法改正をいい出せば、「保守反動」のレッテルを張られて身動きできなくなるような雰囲気がありました。
しかし、あえて、踏み込みます。
いわゆるリベラルこそが、きちんと憲法に取り組む必要があるのではないでしょうか。
「自己欺瞞」を直視する。そして、憲法「改正」アレルギーを脱却する。
憲法は、なにも、安倍首相の専有物ではありません。「改正」をいうのが、保守の特権ということもありません。憲法は、国民みんなのものです。日本国憲法の欺瞞を直視する。そして、わたしたち自身の憲法、わたしたちの時代の憲法をみんなで考える。なにか不都合があるでしょうか?
新型コロナ騒ぎで、世界中、国や社会の在り方が変わりそうです。未来が見えないいま、不安でいっぱいのいまだからこそ、未来に正面から向き合ってみる。そのことで不安を希望に変える。そんな生存戦略もあるように思います。
コロナ休息ともいえる時期、たまたまなのですが、ズームやスカイプといったネットの仕組みを通して、いろいろなテーマを掲げる、いくつもの市民団体、地域団体の存在を直接、知ることができました。
そんなコミュニティで、それぞれに、少しずつでも話し合っては、どうでしょう?
わたしたちはいったい、どんな社会、どんな国に住みたいのか?
ちょっとした、身近な疑問や課題を掘り下げてみる。そして、希望に切り替え、可能性を探ってみる。日本のこと、世界のことを考える。その考えを、ことばにしてみる。
そんな作業が、日本全国、津々浦々の無数のコミュニティで(それぞれ、ほんのちょっとであっても)展開される。
もし実現すれば、新型コロナ騒動が希望に切り替わる、そんなチャンスのようにも思えるのです。
最後にもう一度、繰り返します。
わたしたちは、どんな社会、どんな国に住みたいのか?
それを、ことばにしてみる。
――わたしの考える、「憲法改正」の出発点です。
ご批判、よろしくお願いします。
@店長の前職(大学教授)時代の担当ゼミ生の『Yゼミ卒業論文集;先ごろ若者気質』
Aフィールドワークで地域の方々と資料をまとめた『瀬田国民学校 学級日誌』、
Bチャイハナの日々 です。
@ではありのままの若者像を、Aでは戦争の時代にあっても明るく過ごした子どもたちの様子を、Bではチャイハナの日々の様子をお伝えしています
2020年06月15日
安保闘争を振り返る
わたし自身が60年前、(ちょっぴり)加わった安保闘争、いったい何だったのだろう?
考えるうちに、日本国憲法に行き着いてしまいました。
基本的には、いまの日本国憲法は占領時代にできた”暫定憲法"です。
そろそろ、国民の手になる「本格憲法」を考えてもいいのではないでしょうか?
新型コロナで、不景気、倒産、失業・・・とんでもない時代がやってきそうです。
だからこそ、未来に目を向けることが大切だと思うのです。
わたしたちは、どんな国、どんな社会に住みたいのか?
そのことを仲間たちと話し合ってみる。
そんな作業が、日本中、津々浦々のいろいろなコミュニティ、地域社会で行われる。
暗い時代だからこそ、未来に「希望」を探る――ある種の生存戦略としても成り立つと思います。
以下、長い文章になりましたが、とりわけ、“リベラル”を自任する、「日本国憲法・大事」の方々に考えていただきたいと思います。
1)安保闘争を振り返る
<「憲法(9条)を護れ」と「日米安保・反対」は、両立するだろうか?>
そんな疑問を提示したのは、5月の憲法記念日のころでした。そしてとうとう、「安保闘争」の6月です。
もう一度、わたしの最初の疑問を整理します。こういうことです。
「憲法9条を護れ」なら、「日本の防衛は、アメリカに頼む」。
逆に、「日米安保・反対」なら、「自力防衛」――。
それが、通常の論理だろうと思います。
ところが、60年前、(まさしく、わたし自身も街頭に出た)「安保闘争」は、一方で「(日米)安保ハンタイ」を叫び、他方で「憲法を護れ」と主張しました。
いったい、わたし(たち)は何を考えていたのだろう? どんな論理だったのだろう?
(いま思い返して)そこのところがよく分からなくて・・・それが、わたしの問いかけでした。
そして、結局のところ、「尋ねることは、考えること」でした。
わたしなりに考えて、行き着いた答えは、とても単純なことでした。
「東西冷戦」を拒絶した!
そうすれば、「絶対平和」が成立します。
東西冷戦は、戦後世界の基本構造でしょう。それを「存在しない」、あるいは「存在してはならない」と規定する。そうすれば、旧ソ連という「敵対勢力」は消滅します。敵がいないということなら、「国防」は不要です。
1960年といえば、終戦から15年。当たり前のことですが、「戦争」を嫌悪する気持ちは、社会に充満していました。その「平和願望」が、東西冷戦という“現実”を忌避させた、それが、(少なくとも、末端でデモに加わったわたしレベルの)安保闘争だった、と考えます。
もうひとついうと、指導者たちの場合、旧ソ連がよって立つ「社会主義」に対する抜きがたい親近感(憧憬)があったと思います。そんな気持ちが東西冷戦という現実を見る目を曇らせたのではないでしょうか。
考えるうちに、日本国憲法に行き着いてしまいました。
基本的には、いまの日本国憲法は占領時代にできた”暫定憲法"です。
そろそろ、国民の手になる「本格憲法」を考えてもいいのではないでしょうか?
新型コロナで、不景気、倒産、失業・・・とんでもない時代がやってきそうです。
だからこそ、未来に目を向けることが大切だと思うのです。
わたしたちは、どんな国、どんな社会に住みたいのか?
そのことを仲間たちと話し合ってみる。
そんな作業が、日本中、津々浦々のいろいろなコミュニティ、地域社会で行われる。
暗い時代だからこそ、未来に「希望」を探る――ある種の生存戦略としても成り立つと思います。
以下、長い文章になりましたが、とりわけ、“リベラル”を自任する、「日本国憲法・大事」の方々に考えていただきたいと思います。
1)安保闘争を振り返る
<「憲法(9条)を護れ」と「日米安保・反対」は、両立するだろうか?>
そんな疑問を提示したのは、5月の憲法記念日のころでした。そしてとうとう、「安保闘争」の6月です。
もう一度、わたしの最初の疑問を整理します。こういうことです。
「憲法9条を護れ」なら、「日本の防衛は、アメリカに頼む」。
逆に、「日米安保・反対」なら、「自力防衛」――。
それが、通常の論理だろうと思います。
ところが、60年前、(まさしく、わたし自身も街頭に出た)「安保闘争」は、一方で「(日米)安保ハンタイ」を叫び、他方で「憲法を護れ」と主張しました。
いったい、わたし(たち)は何を考えていたのだろう? どんな論理だったのだろう?
(いま思い返して)そこのところがよく分からなくて・・・それが、わたしの問いかけでした。
そして、結局のところ、「尋ねることは、考えること」でした。
わたしなりに考えて、行き着いた答えは、とても単純なことでした。
「東西冷戦」を拒絶した!
そうすれば、「絶対平和」が成立します。
東西冷戦は、戦後世界の基本構造でしょう。それを「存在しない」、あるいは「存在してはならない」と規定する。そうすれば、旧ソ連という「敵対勢力」は消滅します。敵がいないということなら、「国防」は不要です。
1960年といえば、終戦から15年。当たり前のことですが、「戦争」を嫌悪する気持ちは、社会に充満していました。その「平和願望」が、東西冷戦という“現実”を忌避させた、それが、(少なくとも、末端でデモに加わったわたしレベルの)安保闘争だった、と考えます。
もうひとついうと、指導者たちの場合、旧ソ連がよって立つ「社会主義」に対する抜きがたい親近感(憧憬)があったと思います。そんな気持ちが東西冷戦という現実を見る目を曇らせたのではないでしょうか。
2020年05月29日
緩いお茶会
6月3日(水) ボイストレーニング(エメ先生)
6月5日(金) 歌声喫茶(春日町図書館、小林先生)
上記、昨日案内しました。
開催は予定通りです。
ただし、まだ、「大声張り上げて」というわけにはいきません。
状況を見ながら、とりあえず集まってみよう、というのが趣旨です。
どうぞ、元気な顔を見せて下さい。
チャイハナ光が丘 吉村
6月5日(金) 歌声喫茶(春日町図書館、小林先生)
上記、昨日案内しました。
開催は予定通りです。
ただし、まだ、「大声張り上げて」というわけにはいきません。
状況を見ながら、とりあえず集まってみよう、というのが趣旨です。
どうぞ、元気な顔を見せて下さい。
チャイハナ光が丘 吉村
2020年05月28日
6月2日(火)から再開します
●「動けない」「集まれない」―――とんでもない世の中になってしまいました。
「動くこと、動かすこと」は、現代社会の原点です。自動車、列車、航空機・・・より速く、より遠く、より大量にとわたしたちはまい進してきました。そうして科学技術は発展し、経済は拡大しました。
「集まること、集めること」もまた、現代社会の原点です。人々が「集まること」で会社や役所、政党や議会、民主主義は成り立ちます。人々を「集めること」でコンサートや展覧会、プロ野球やプロサッカーは成立します。デパートや商店街・・・多くのビジネスの基本は「集客」です。
●「近寄れない」「話せない」―――恐ろしいことです。
私語やいたずらを禁じられた小学生が、どんな大人に育つのか?
演劇や大相撲は続けられるのか?
家族とか恋愛とか、これまでと変わらないのか?
●新型コロナウイルスがもたらす未来――決して元には戻らない、が前提です。
皆さまの考えを是非、お聞かせください。
――いきなり、変な文章を紹介してしまいました。
チャイハナ光が丘は、6月2日(火)から再開します。
6月3日(水 午後2時)には、エメ先生のボイストレーニングがあります。
6月5日(金 午後3時)は、歌声喫茶(小林先生、春日町図書館)です。
冒頭に紹介したのは、6月4日(木)午前10時半に開催する「世界はいま」の惹句です。
昨夜ホームページにアップした、6・7月の予定表からとりました。
新型コロナウイルスによって、わたしたちは「動くこと」「集まること」「近寄ること」「話すこと」を、封じられてしまいました。「コロナ後」に待っているのは、いったいどんな世界なのでしょう?
みんなで考えてみたいと思っています。
なお、「世界はいま」は、1990年代末、朝日新聞から「衛星チャンネル」というテレビ局に出向していた際に受け持った番組のタイトルです。朝日新聞を退職(2000年)した後は、NHKカルチャーセンター(光が丘)で続け、「チャイハナ光が丘」のオープン(2010年)にあわせてチャイハナに引き取りました。
そんな意味で、20年以上続いてきた長期番組(イベント)です。わたしにとっては、世界の動きや「現代」という時代について考え続けるチャンスでした。
飽きもせず出席いただいている方々に、あらためて感謝をお伝えしたいと思います。
「動くこと、動かすこと」は、現代社会の原点です。自動車、列車、航空機・・・より速く、より遠く、より大量にとわたしたちはまい進してきました。そうして科学技術は発展し、経済は拡大しました。
「集まること、集めること」もまた、現代社会の原点です。人々が「集まること」で会社や役所、政党や議会、民主主義は成り立ちます。人々を「集めること」でコンサートや展覧会、プロ野球やプロサッカーは成立します。デパートや商店街・・・多くのビジネスの基本は「集客」です。
●「近寄れない」「話せない」―――恐ろしいことです。
私語やいたずらを禁じられた小学生が、どんな大人に育つのか?
演劇や大相撲は続けられるのか?
家族とか恋愛とか、これまでと変わらないのか?
●新型コロナウイルスがもたらす未来――決して元には戻らない、が前提です。
皆さまの考えを是非、お聞かせください。
――いきなり、変な文章を紹介してしまいました。
チャイハナ光が丘は、6月2日(火)から再開します。
6月3日(水 午後2時)には、エメ先生のボイストレーニングがあります。
6月5日(金 午後3時)は、歌声喫茶(小林先生、春日町図書館)です。
冒頭に紹介したのは、6月4日(木)午前10時半に開催する「世界はいま」の惹句です。
昨夜ホームページにアップした、6・7月の予定表からとりました。
新型コロナウイルスによって、わたしたちは「動くこと」「集まること」「近寄ること」「話すこと」を、封じられてしまいました。「コロナ後」に待っているのは、いったいどんな世界なのでしょう?
みんなで考えてみたいと思っています。
なお、「世界はいま」は、1990年代末、朝日新聞から「衛星チャンネル」というテレビ局に出向していた際に受け持った番組のタイトルです。朝日新聞を退職(2000年)した後は、NHKカルチャーセンター(光が丘)で続け、「チャイハナ光が丘」のオープン(2010年)にあわせてチャイハナに引き取りました。
そんな意味で、20年以上続いてきた長期番組(イベント)です。わたしにとっては、世界の動きや「現代」という時代について考え続けるチャンスでした。
飽きもせず出席いただいている方々に、あらためて感謝をお伝えしたいと思います。
2020年04月01日
[世界はいま」(2日)お休みのこと
またまた、お急ぎのお知らせです。
明日(4月2日)午前に予定していた「世界はいま」は、取りやめます。
ご存知の通りの事情です。
4月のテクストは、いつものように用意しました。
常連の方々には、お送りします。
その他の方でも、もし関心をお持ちでしたら、送り先を知らせて下さい。
また、念のためですが、Caféのドアはいつものように開けています。
(いまは用心が必要なときですが)のぞいていただければ、幸甚です。
以上、よろしくお願いします。
チャイハナ光が丘 吉村
明日(4月2日)午前に予定していた「世界はいま」は、取りやめます。
ご存知の通りの事情です。
4月のテクストは、いつものように用意しました。
常連の方々には、お送りします。
その他の方でも、もし関心をお持ちでしたら、送り先を知らせて下さい。
また、念のためですが、Caféのドアはいつものように開けています。
(いまは用心が必要なときですが)のぞいていただければ、幸甚です。
以上、よろしくお願いします。
チャイハナ光が丘 吉村
2020年03月30日
2020年03月27日
「朗読」(31日)と「ボイストレーニング(4月1日)は中止
2020年03月19日
カントウタンポポ
2020年03月11日
春です。チャイハナウォーク
2020年03月04日
やっぱり「政権交代」こそ
「コロナ感染は、風邪の一種です。コロナウイルスは気温が上がると生きていけない。暖かくなれば、自然におさまる――ウイルス研究の大御所(80)による見立てです。
収拾のめどがついたら、それを花道として、安倍政権は退陣する。そして、新政権を中心に、コロナで荒廃した人心を一新し、日本の再出発を図る――チャイハナ光が丘からの提言です。
もし、それを契機に、近隣国を始め世界に政権交代の波が広がり、「コロナの春」というようなことになるなら、安倍首相と日本は世界から見直され、とくにアジアの民衆からは深い感謝と称賛が寄せられるでしょう」
――以上、チャイハナ光が丘「3,4月の日程表(表)」に掲載した「世界はいま」(5日)PR文です。
ほぼ同文で、昨日、FBにも投稿しました。もともと、ある意味、FB狙いの文章です。
でも、どうやら空振り――楽観的過ぎる、という友人たちの評があっただけでした。
わたしの真意をいうと、「花道」は、惻隠の情。また、近隣国の首脳たちのことは、こうなればいいなという希望、ジョークの類です。
わたしの真意は、彼は「退陣」すべきだ、ということです。
与党も野党もメディアも、(呆けていて)それをいう力がない。だったら、国民の力です。日本中の家という家で、表札の隣に「退陣要求」の張り紙が出てもいいぐらいに思っています。
理由は、3つあります。
第一は、ムードの転換です。彼にミスや欠陥があったかどうか、そんなことはどうでもいい。部下のミスだろうと、外的な要因だろうと、要するに理由は何であろうと、業績が下がってきたら、とりあえずトップが交代する。企業ならそうでしょう。あらゆる組織の基本と思います?
疑心暗鬼、猜疑心、日和見・・・なんとなく「マイナス」の方向に向いてきた日本人のこころのベクトルを、「さぁ、(つらくても、面倒でも)前に進むか」というプラスの方向に切り替える。そのための、トップ交代論です。
第二は、「ダイヤモンド・プリンセス」感染問題処理の失敗についての責任です。
窓を開け放ってパーティ三昧で暮らさせたらいいものを(カンボジアで乗客が降りたウエステルダム号の場合がそうでした。同号のコロナ問題は、雲散霧消です)、「室内で、安静に」などといった馬鹿げた指導で、(外からのイメージでは)日本を感染列島にしてしまいました。
専門家の意見を聞かなかった(あるいは、えせ専門家しか周辺にいなかった)厚労省の責任です。最終責任が、トップに問われるのは、当然です。
第三、最も決定的な理由・・・全国の小中高・一律休校の要請です。
共働きの親が困るとか、こどもの重症例はほぼない、とかいったことは些事です。
ほんとうの問題は、一国の宰相が、教育という営為を、日本の将来世代の成長という問題をバカにした、ということです。
どうして日教組は怒らないのでしょう? どうして、校長会は抗議声明を出さないのでしょう? 「授業を続けたい」といえないのでしょう?
正直、「怒れない」心根は推定できます――「万一何かあったら大変、必ず責められる!」
同じ心理(いわば自己保身)が、野党、メディア、官界などを覆いつくしているように思います。それが、「大変だ!!」「きちんと対策を!」といった大合唱になり、そのことが、小中高の一律休校などといった馬鹿げた施策につながっていないでしょうか。地方官庁、相撲協会、プロ野球、興行関係・・・みんなが横並び、「うちも、やってます!」の大合唱です。
一人、二人の犠牲者の発生をわざわざ知事が発表する。それをいかにも大事のようにメディアが伝える! 知事たちはただ自らの「露出」を喜んでいるだけなのと違いますか。
(わたしの感性では)庶民の感覚は別です。「なんか、変だな」という漠然とした疑念が広がっているように思います。
彼を退陣に追い込む、「コロナの春」があり得ることに思えるのです。
最後に、WHOが中国の専門家らと、5万余人の患者調査から出したデータ(2月29日)をひとつ紹介します。コロナ感染患者の致死率に関するものです.
@ 1月1日〜10日・・・17.3%
A 2月1日以降・・・・・0.7%
@ は、明らかに武漢を中心とした大騒動の最中のことです。中国という強権国家体制がつくりだした致死率です。Aは、WHO、中国は「迅速な対策」の成果としています。しかし、むしろ、普通に対応すれば、この程度の「弱い」ウイルスだと判断してよいと思います。それにもかかわらず、わたしたちはいまも、最初の@のイメージのまま対応しています。
新型コロナといえども、パラサイト(寄生生物)です。宿主(ヒト)を殺すのは、いわば自死。素人考えですが、世代を重ねれば、宿主と仲良くやる「共生」の方向に進化するのが必然です。もう、その「穏健な」段階に達しているかもしれません(?)。
いずれにしても、敵の正体がわからない初期の段階では、身をすくめて懸命の用心をする、時間がたって敵の正体が分かってきたら、神経を緩めて、「日常」の一部として対応する――危機対応の基本でしょう。
ところが、安倍首相は逆をしてしまいました。「始め・ノンビリ、後・緊急」です。
野党もメディアも、いわゆる識者も「何かあったら(責任が取れない、いや、叩かれる)」という「保身」に汲々としているようにみえます。そのことを人質にとって、安倍政権は、コロナで脅しているのではないでしょうか。
それが、(いま気がついた)第4の罪状です。コロナで国民を脅し、自らの保身を図る。それで国中を大混乱に陥れ、現実の被害を産み、日本の評判を落とす。許せることではありません。
無論、脅されて(そのことに気づかない振りのまま)、「(対策を)もっとやれ!」「(政府の対策は)・・・が足りない」の一点張りの野党やメディアも同罪です。
「(コロナ)緊急事態宣言」など、いうまでもなく、馬鹿げたことです。
緊急事態なのは、コロナよりも、日本の政治とそれを取り巻く現状です。
早急に、国民運動として「政権交代」を実現することが必要です。
新政権のとりあえずの課題は、安倍首相の全国小中学校の一斉休校をひっくり返し、せめて春休み返上で学校に戻すことはできないかどうか、早急に検討を進めることです。
まさか、反対する教育関係者はいないと思います。
以上、吉村の暴論でした。
収拾のめどがついたら、それを花道として、安倍政権は退陣する。そして、新政権を中心に、コロナで荒廃した人心を一新し、日本の再出発を図る――チャイハナ光が丘からの提言です。
もし、それを契機に、近隣国を始め世界に政権交代の波が広がり、「コロナの春」というようなことになるなら、安倍首相と日本は世界から見直され、とくにアジアの民衆からは深い感謝と称賛が寄せられるでしょう」
――以上、チャイハナ光が丘「3,4月の日程表(表)」に掲載した「世界はいま」(5日)PR文です。
ほぼ同文で、昨日、FBにも投稿しました。もともと、ある意味、FB狙いの文章です。
でも、どうやら空振り――楽観的過ぎる、という友人たちの評があっただけでした。
わたしの真意をいうと、「花道」は、惻隠の情。また、近隣国の首脳たちのことは、こうなればいいなという希望、ジョークの類です。
わたしの真意は、彼は「退陣」すべきだ、ということです。
与党も野党もメディアも、(呆けていて)それをいう力がない。だったら、国民の力です。日本中の家という家で、表札の隣に「退陣要求」の張り紙が出てもいいぐらいに思っています。
理由は、3つあります。
第一は、ムードの転換です。彼にミスや欠陥があったかどうか、そんなことはどうでもいい。部下のミスだろうと、外的な要因だろうと、要するに理由は何であろうと、業績が下がってきたら、とりあえずトップが交代する。企業ならそうでしょう。あらゆる組織の基本と思います?
疑心暗鬼、猜疑心、日和見・・・なんとなく「マイナス」の方向に向いてきた日本人のこころのベクトルを、「さぁ、(つらくても、面倒でも)前に進むか」というプラスの方向に切り替える。そのための、トップ交代論です。
第二は、「ダイヤモンド・プリンセス」感染問題処理の失敗についての責任です。
窓を開け放ってパーティ三昧で暮らさせたらいいものを(カンボジアで乗客が降りたウエステルダム号の場合がそうでした。同号のコロナ問題は、雲散霧消です)、「室内で、安静に」などといった馬鹿げた指導で、(外からのイメージでは)日本を感染列島にしてしまいました。
専門家の意見を聞かなかった(あるいは、えせ専門家しか周辺にいなかった)厚労省の責任です。最終責任が、トップに問われるのは、当然です。
第三、最も決定的な理由・・・全国の小中高・一律休校の要請です。
共働きの親が困るとか、こどもの重症例はほぼない、とかいったことは些事です。
ほんとうの問題は、一国の宰相が、教育という営為を、日本の将来世代の成長という問題をバカにした、ということです。
どうして日教組は怒らないのでしょう? どうして、校長会は抗議声明を出さないのでしょう? 「授業を続けたい」といえないのでしょう?
正直、「怒れない」心根は推定できます――「万一何かあったら大変、必ず責められる!」
同じ心理(いわば自己保身)が、野党、メディア、官界などを覆いつくしているように思います。それが、「大変だ!!」「きちんと対策を!」といった大合唱になり、そのことが、小中高の一律休校などといった馬鹿げた施策につながっていないでしょうか。地方官庁、相撲協会、プロ野球、興行関係・・・みんなが横並び、「うちも、やってます!」の大合唱です。
一人、二人の犠牲者の発生をわざわざ知事が発表する。それをいかにも大事のようにメディアが伝える! 知事たちはただ自らの「露出」を喜んでいるだけなのと違いますか。
(わたしの感性では)庶民の感覚は別です。「なんか、変だな」という漠然とした疑念が広がっているように思います。
彼を退陣に追い込む、「コロナの春」があり得ることに思えるのです。
最後に、WHOが中国の専門家らと、5万余人の患者調査から出したデータ(2月29日)をひとつ紹介します。コロナ感染患者の致死率に関するものです.
@ 1月1日〜10日・・・17.3%
A 2月1日以降・・・・・0.7%
@ は、明らかに武漢を中心とした大騒動の最中のことです。中国という強権国家体制がつくりだした致死率です。Aは、WHO、中国は「迅速な対策」の成果としています。しかし、むしろ、普通に対応すれば、この程度の「弱い」ウイルスだと判断してよいと思います。それにもかかわらず、わたしたちはいまも、最初の@のイメージのまま対応しています。
新型コロナといえども、パラサイト(寄生生物)です。宿主(ヒト)を殺すのは、いわば自死。素人考えですが、世代を重ねれば、宿主と仲良くやる「共生」の方向に進化するのが必然です。もう、その「穏健な」段階に達しているかもしれません(?)。
いずれにしても、敵の正体がわからない初期の段階では、身をすくめて懸命の用心をする、時間がたって敵の正体が分かってきたら、神経を緩めて、「日常」の一部として対応する――危機対応の基本でしょう。
ところが、安倍首相は逆をしてしまいました。「始め・ノンビリ、後・緊急」です。
野党もメディアも、いわゆる識者も「何かあったら(責任が取れない、いや、叩かれる)」という「保身」に汲々としているようにみえます。そのことを人質にとって、安倍政権は、コロナで脅しているのではないでしょうか。
それが、(いま気がついた)第4の罪状です。コロナで国民を脅し、自らの保身を図る。それで国中を大混乱に陥れ、現実の被害を産み、日本の評判を落とす。許せることではありません。
無論、脅されて(そのことに気づかない振りのまま)、「(対策を)もっとやれ!」「(政府の対策は)・・・が足りない」の一点張りの野党やメディアも同罪です。
「(コロナ)緊急事態宣言」など、いうまでもなく、馬鹿げたことです。
緊急事態なのは、コロナよりも、日本の政治とそれを取り巻く現状です。
早急に、国民運動として「政権交代」を実現することが必要です。
新政権のとりあえずの課題は、安倍首相の全国小中学校の一斉休校をひっくり返し、せめて春休み返上で学校に戻すことはできないかどうか、早急に検討を進めることです。
まさか、反対する教育関係者はいないと思います。
以上、吉村の暴論でした。