連絡です。
チャイハナ光が丘歌声チームは、練馬区光が丘地区祭に出場します。
その日程が確定しました。
10月12日(土)12時30分です。
場所は、光が丘区民ホール。
出演者は、午前11時半、光が丘区民センター1階の待合室(都営地下鉄光が丘駅A1出口バルターミナル奥)です。
ついでだから、そこでどんな歌を歌うか、哨戒しておきます。
(もし興味を持っていただけたら、ご連絡ください)
第36回 光が丘地区祭 発表曲 「チャイハナ、タンポポ歌声の会」
村祭り 村の鎮守の神様の 今日はめでたいお祭り日
ドンドンヒャララ ドンヒャララ 〜 朝から聞こえる笛太鼓
年も豊年満作で 村は総出の大祭り
ドンドンヒャララ ドンヒャララ 〜 夜まで賑わう宮ノ森
もみじ 秋の夕日に 照る山もみじ 濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓や 蔦は 山のふもとの すそ模様 *繰り返し
エーデルワイズ
*エーデルワイス エーデルワイス 真白な花よ 清く光る 雪に咲く花
かおれ朝の風に とわに咲けと エーデルワイス エーデルワイス 祖国の花よ *繰り返し
サンタルチア
*月は高く 海に照り 風も絶え 波もなし *繰り返し
*来よや友よ 船は待てリ サンタルチア サンタルチア *繰り返し
齋太郎節
前奏3(ソーリャ)エンヤートット エンヤートット エンヤートットヤー
松島のサーヨー 瑞巌寺ほどの(アーコリャコリャ)
寺もないトエー アレハエーエトソーリャ 大漁だエー
前は海サーヨー うしろは山で(あーコリャコリャ)
小松原トエー アレハエーエートソリャ 大漁だエー 大漁だーエー
カチューシャ
リンゴの花ほころび 川面にかすみたち *君なき里にも 春は忍びよりぬ *繰り返し
岸辺にたちて歌う カチューシャの歌 *春風やさしく吹き 春は忍びよりぬ*繰り返し
間奏 リンゴの花ほころび 川面にかすみたち *君なき里にも 春は忍びよりぬ *繰り返し
光が丘我が街
(ソロ)喜びも悲しみも みんなこの街に 夜でも昼でも 心の慰め
誰にでも愛される私のふるさと 私の心はいつもこの街に はるか聞こえてくる楽しい歌声
(合唱)*光が丘 歌声の窓辺よ 明るい笑顔の楽しい仲間たち
光が丘 歌声の窓辺よ 明るい夢ひろがる 光が丘 *繰り返し
@店長の前職(大学教授)時代の担当ゼミ生の『Yゼミ卒業論文集;先ごろ若者気質』
Aフィールドワークで地域の方々と資料をまとめた『瀬田国民学校 学級日誌』、
Bチャイハナの日々 です。
@ではありのままの若者像を、Aでは戦争の時代にあっても明るく過ごした子どもたちの様子を、Bではチャイハナの日々の様子をお伝えしています
2019年09月11日
2019年09月08日
韓国・文在彦政権のこれから@
もう一度、木曜日(5日)のセミナー「「世界はいま」からの紹介です。
韓国・文在彦大統領の「反日」はいったいどう解釈すればよいのでしょうか?
わたしの考えは、李朝時代の「朝鮮」にさかのぼります。
そして、この政権はもう「シニタイ」だという結論に行き着いてしまいました。
●陸続きの大陸。そこにある大「帝国」。逆らえば、いつでも大軍を送ってくるでしょう。朝鮮王朝の存続は、中華王朝(明、清)の保障によって、保たれています。
保証を獲得する手段、それが朝貢、そして、礼式(三跪九叩礼)です。
そういう手続きで(中華帝国によって)保障される王権を、みんなに信じ込ませる――そこで重要になるのが儒教です。このようにして出来上がったのが「東方君子国」です。
●その「儒教」とはいったい何でしょう?
「秩序(安定、階梯)の思想」ということではないでしょうか?
君臣(身分)、長幼、男女、階層、貴賤、国、民族・・・あらゆるものを分かち、順番をつける。それが儒教の根幹のように思えます。さまざまな民族、さまざまな言語が入り混じる「中原」で、「平和」を維持する手段としてこのような思想が必要だったのではないでしょうか?
わたしたち日本人にもある考えです。大きく見れば、いわゆる「東洋思想」の根幹ということになります。
韓国・文在彦大統領の「反日」はいったいどう解釈すればよいのでしょうか?
わたしの考えは、李朝時代の「朝鮮」にさかのぼります。
そして、この政権はもう「シニタイ」だという結論に行き着いてしまいました。
●陸続きの大陸。そこにある大「帝国」。逆らえば、いつでも大軍を送ってくるでしょう。朝鮮王朝の存続は、中華王朝(明、清)の保障によって、保たれています。
保証を獲得する手段、それが朝貢、そして、礼式(三跪九叩礼)です。
そういう手続きで(中華帝国によって)保障される王権を、みんなに信じ込ませる――そこで重要になるのが儒教です。このようにして出来上がったのが「東方君子国」です。
●その「儒教」とはいったい何でしょう?
「秩序(安定、階梯)の思想」ということではないでしょうか?
君臣(身分)、長幼、男女、階層、貴賤、国、民族・・・あらゆるものを分かち、順番をつける。それが儒教の根幹のように思えます。さまざまな民族、さまざまな言語が入り混じる「中原」で、「平和」を維持する手段としてこのような思想が必要だったのではないでしょうか?
わたしたち日本人にもある考えです。大きく見れば、いわゆる「東洋思想」の根幹ということになります。
2019年09月06日
「社会主義国はなぜ強権的なのか?」 (世界はいま=5日)から
毎月第1木曜、「世界はいま」と題して、先月の国際ニュースを解説しています。チャイハナ開設(それ以前はNHKカルチャーセンター)以来ですから、優に20年近く続いてきた長期番組です。今月は、5日でした。
内容の一部を紹介してみます、
香港の「逃亡犯条例」をめぐる混乱---。北京政府は、人民解放軍(広東省湛江)や人民武装警察(PAP深圳)を集めて、ひたすら香港市民を「脅迫」しています。
どうして北京はこうも強権的なのでしょう?
そのことを考えるうちに行き着いたのが、マルクス・レーニン主義に問題があるのではないかという考えです。
マルクス・レーニン主義といえば、わたしの学生時代、一世を風靡した思想です。多くの学友がそれを学び、それについて議論しました。
しかし、(いま思うと)問題があったようです。「原理」は学んだけれど、「実践」は(一部の運動家を別にすれば)学ばなかったことです。
マルクスレーニン主義がめざすのは、「みんなの平等」「「みんなの幸福」です。しかし、「みんな」というのは、もともと無理なことです。だから、革命は常に「未完」であり、永遠に戦い続けなければなりません。
その戦いを「実践する」手段。それは、階級「闘争」であり、そして「一党独裁」です。
革命を成就し、権力を獲得しても、「党」は「戦い続け」なければなりません。「みんな」を目標にする限り、革命は「永遠に未完」だからです。
では、「党」とは何でしょうか?
書記長? 中央委員会?・・・中国の場合として、わたしが思うのは、今年は8月3日に始まったという「非公式の」北戴河会議です。現役幹部らの他、胡錦涛や李鵬ら長老たちも集まったといいます。
では、その「党」は何と戦うのでしょう?
「党」が戦かう「敵」とは、何でしょう?
「敵」は、二方面にいます。「内部の敵」と「外部の敵」です。
「内部の敵」が、「人民」です。
常に造反の可能性を持っています。
社会主義政権が、基本的に強権的である理由です。
もう一つ、「外部の敵」とは、つまり、諸外国です。
常に革命を妨げる可能性を持っているからです。
社会主義国家は、(少なくとも世界中が社会主義化されるまでは) 「軍拡」を続ける「軍事国家」です。
もちろん、異論、反論は多いと思います。
しかし、(いまのところは) 香港市民に対する中国の「振る舞い」というだけでなく、過去に存在した、そしてまた、いま現ニ存在するいくつかの社会主義国の「ありよう」をそれなりに、説明できる考えのように思うのです。
間違っている可能性は大いにあります。
ご教示願えるとさいわいです。
内容の一部を紹介してみます、
香港の「逃亡犯条例」をめぐる混乱---。北京政府は、人民解放軍(広東省湛江)や人民武装警察(PAP深圳)を集めて、ひたすら香港市民を「脅迫」しています。
どうして北京はこうも強権的なのでしょう?
そのことを考えるうちに行き着いたのが、マルクス・レーニン主義に問題があるのではないかという考えです。
マルクス・レーニン主義といえば、わたしの学生時代、一世を風靡した思想です。多くの学友がそれを学び、それについて議論しました。
しかし、(いま思うと)問題があったようです。「原理」は学んだけれど、「実践」は(一部の運動家を別にすれば)学ばなかったことです。
マルクスレーニン主義がめざすのは、「みんなの平等」「「みんなの幸福」です。しかし、「みんな」というのは、もともと無理なことです。だから、革命は常に「未完」であり、永遠に戦い続けなければなりません。
その戦いを「実践する」手段。それは、階級「闘争」であり、そして「一党独裁」です。
革命を成就し、権力を獲得しても、「党」は「戦い続け」なければなりません。「みんな」を目標にする限り、革命は「永遠に未完」だからです。
では、「党」とは何でしょうか?
書記長? 中央委員会?・・・中国の場合として、わたしが思うのは、今年は8月3日に始まったという「非公式の」北戴河会議です。現役幹部らの他、胡錦涛や李鵬ら長老たちも集まったといいます。
では、その「党」は何と戦うのでしょう?
「党」が戦かう「敵」とは、何でしょう?
「敵」は、二方面にいます。「内部の敵」と「外部の敵」です。
「内部の敵」が、「人民」です。
常に造反の可能性を持っています。
社会主義政権が、基本的に強権的である理由です。
もう一つ、「外部の敵」とは、つまり、諸外国です。
常に革命を妨げる可能性を持っているからです。
社会主義国家は、(少なくとも世界中が社会主義化されるまでは) 「軍拡」を続ける「軍事国家」です。
もちろん、異論、反論は多いと思います。
しかし、(いまのところは) 香港市民に対する中国の「振る舞い」というだけでなく、過去に存在した、そしてまた、いま現ニ存在するいくつかの社会主義国の「ありよう」をそれなりに、説明できる考えのように思うのです。
間違っている可能性は大いにあります。
ご教示願えるとさいわいです。
2019年08月30日
映画『226』(五社英雄監督)を観る
もう一週間前になります。
24日の映画鑑賞会。五社英雄監督の『226』(1989年)を観ました。
軍国主義、そして、戦争に向けて日本を大きく動かした「二・二六事件」(1936年)を、決起した青年将校たちを中心にして描いた作品です。
隠された主題のひとつは、天皇制です。
青年将校たちは、時代の行き詰まりを意識し、「君側の奸」つまり重臣たちを排除して、天皇親政の清潔な政治を実現したいと考えます。
事件を知った昭和天皇は即座に「信頼する重臣たちが殺された。反乱だ」と断定なさったと伝えられています。
「担いだはずの天皇に受け入れてもらえない」――つまり、絶対に成功のないクーデターでした。そんなクーデターに立ち上がった青年たちが主題です。
映画を鑑賞した後の話し合い。
当たり前のことですが、天皇制のことが話題になりました。
こんなことを考えました。
だれが日本人で、だれがそうでないのか? 地域や時間によっては、外国人(?)が多数派おいうこともある。日本人離れ(?)の美人が、ミスユニバース日本代表に選ばれる。そんな時代、「日本」というアイデンティティはどう、維持されるのだろう?
それを考えたとき、天皇ご一家を中心に展開される季節きせつの儀式は重要なのではないか?
いわば、日本国のアイデンティティを守護する、「儀典担当」です。
しかし、こんな話も紹介されました。
皇族の記者会見。
宮内庁記者クラブのメンバーは、ひたすら聞き入っている。
ところが、クラブに属さないテレビなどの記者が、直接、質問しようとする。
宮内庁職員(広報)が飛んできて、止める。
「直接、話しかけないで下さい」
天皇一族が、国民と距離を置きたがっているとは思いません。
しかし、宮内庁記者クラブも含めて、いわば、「天皇制で食っている(仕事をしている)」人たちがいます。そういう人たちには、おおいに問題がある、といってよいでしょう。
この映画を見ることになったのは、「みんなで観たい」という、ご近所にお住いの神田九十九さん(96)の提案からです。
事件のあった時代が、神田さんにとっては、十代後半です。わたしたちに何を見せたかったのか、ちょっとだけ、わかるような気がしました。
鑑賞後の話し合いで、続けて、あの時代を描いた映画を観ようということになりました。
今度は、森谷史郎監督の『動乱』(1980年)。
紹介文を見ると、「昭和史の起点となった五・一五事件(1932)から二・二六事件(1036)までの風雲急を告げる時を背景に、寡黙な青年将校とその妻の生きざまと愛を描く」とあります。この二人が、高倉健と吉永小百合。初共演とのことです。
日程は、9月21日、午後2時から。
よろしくお願いします。
24日の映画鑑賞会。五社英雄監督の『226』(1989年)を観ました。
軍国主義、そして、戦争に向けて日本を大きく動かした「二・二六事件」(1936年)を、決起した青年将校たちを中心にして描いた作品です。
隠された主題のひとつは、天皇制です。
青年将校たちは、時代の行き詰まりを意識し、「君側の奸」つまり重臣たちを排除して、天皇親政の清潔な政治を実現したいと考えます。
事件を知った昭和天皇は即座に「信頼する重臣たちが殺された。反乱だ」と断定なさったと伝えられています。
「担いだはずの天皇に受け入れてもらえない」――つまり、絶対に成功のないクーデターでした。そんなクーデターに立ち上がった青年たちが主題です。
映画を鑑賞した後の話し合い。
当たり前のことですが、天皇制のことが話題になりました。
こんなことを考えました。
だれが日本人で、だれがそうでないのか? 地域や時間によっては、外国人(?)が多数派おいうこともある。日本人離れ(?)の美人が、ミスユニバース日本代表に選ばれる。そんな時代、「日本」というアイデンティティはどう、維持されるのだろう?
それを考えたとき、天皇ご一家を中心に展開される季節きせつの儀式は重要なのではないか?
いわば、日本国のアイデンティティを守護する、「儀典担当」です。
しかし、こんな話も紹介されました。
皇族の記者会見。
宮内庁記者クラブのメンバーは、ひたすら聞き入っている。
ところが、クラブに属さないテレビなどの記者が、直接、質問しようとする。
宮内庁職員(広報)が飛んできて、止める。
「直接、話しかけないで下さい」
天皇一族が、国民と距離を置きたがっているとは思いません。
しかし、宮内庁記者クラブも含めて、いわば、「天皇制で食っている(仕事をしている)」人たちがいます。そういう人たちには、おおいに問題がある、といってよいでしょう。
この映画を見ることになったのは、「みんなで観たい」という、ご近所にお住いの神田九十九さん(96)の提案からです。
事件のあった時代が、神田さんにとっては、十代後半です。わたしたちに何を見せたかったのか、ちょっとだけ、わかるような気がしました。
鑑賞後の話し合いで、続けて、あの時代を描いた映画を観ようということになりました。
今度は、森谷史郎監督の『動乱』(1980年)。
紹介文を見ると、「昭和史の起点となった五・一五事件(1932)から二・二六事件(1036)までの風雲急を告げる時を背景に、寡黙な青年将校とその妻の生きざまと愛を描く」とあります。この二人が、高倉健と吉永小百合。初共演とのことです。
日程は、9月21日、午後2時から。
よろしくお願いします。
2019年07月14日
「昭和・歌の会」(第4回)−昭和20年代
昨日(7月13日)午後のチャイハナ光が丘。
野澤節郎さんの「昭和・歌の会(第4回)」です。
今回のタイトルは、「焼け跡に歌が流れた」。
いよいよ戦後、昭和20年代の流行歌が取り上げられました。
何よりもまず、野澤さんの準備の凄さに驚きました。
パンフレット(野澤さんのいう参考資料)「昭和・歌の会<焼け跡に歌が流れた>」は、
実に、16ページもあります。
そして、1曲1分に編集したビデオ!
美空ひばりの「リンゴの歌」に始まって、「鐘の鳴る丘」、「東京シューシャンボーイ」、「ガード下の靴磨き」、「星の流れに」、「異国の丘」、「かえり船」、「上海帰りのリル」、「岸壁の母」、「東京ブギブギ」、「連絡船の歌」、「湯の街エレジー」、「青い山脈」、「三百六十五夜」。「月よりの使者」、「憧れのハワイ航路」、「ハワイの夜」、「桑港のチャイナタウン」、「別れの一本杉」、「赤いランプの終列車」、「リンゴ村から」、「おんな船頭唄」、「喫茶店の片隅で」、「街のサンドイッチマン」、「東京の人」、「哀愁の街に霧が降る」、「月がとっても青いから」
こうして題名を並べるだけでも、こころが踊り出す方もいらっしゃると思います。そのさわり集を聞かせていただいたのです。
昭和20年代・・・敗戦直後、一億総ざんげがいわれ、徹底的に貧しかった時代。
ところがどっこい、「歌は元気」です。まさに「こころが踊り出す」――そんな活気があります。めそめそしていません。
20年代といえば、わたしには5歳から15歳。小学校から中学校にかけての時代です。地方で育ったせいで、戦災にも直接にはあっていません。
泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだり、転んだり、そして、立ち上がったり、田んぼでイナゴを探したり、小川に入ってメダカやタニシをとったり、いつも泥んこ、それでも入学式などできちんと「正装」したり、法被を着て祭りに出たり、チョウの採集に山野を駆け回ったり、バレーボールの部活の部屋で友人たちと話し込んだり、家でも学校でもしょっちゅう叱られていて・・・お手伝いもよくしたなぁ――とか、あの時代のことを走馬灯のように思い出していました。
そして、思ったのは、今回のタイトルに考えたような「焼け跡に」と画一的に括れるような時代ではなかった、ということです。
戦後を「貧しく、苦しかった、総ざんげ」の時代として振り返るのは、明らかに、観念的にすぎます。
「貧しく、苦しかった」のは事実だとしても、それは同時に、「戦時」という我慢の時代を抜け出した「再出発の時代」でした。再生日本そのものが、5歳から15歳ぐらいの段階だったといえるでしょう。
社会が、新しい未知の時代に向けて動き出した――そんな「自由と希望と活気」を、そして、そして「狂騒」の味付けを、あらためて、まとめて聞かせていただいた20年代の歌に感じました。


野澤節郎さんの「昭和・歌の会(第4回)」です。
今回のタイトルは、「焼け跡に歌が流れた」。
いよいよ戦後、昭和20年代の流行歌が取り上げられました。
何よりもまず、野澤さんの準備の凄さに驚きました。
パンフレット(野澤さんのいう参考資料)「昭和・歌の会<焼け跡に歌が流れた>」は、
実に、16ページもあります。
そして、1曲1分に編集したビデオ!
美空ひばりの「リンゴの歌」に始まって、「鐘の鳴る丘」、「東京シューシャンボーイ」、「ガード下の靴磨き」、「星の流れに」、「異国の丘」、「かえり船」、「上海帰りのリル」、「岸壁の母」、「東京ブギブギ」、「連絡船の歌」、「湯の街エレジー」、「青い山脈」、「三百六十五夜」。「月よりの使者」、「憧れのハワイ航路」、「ハワイの夜」、「桑港のチャイナタウン」、「別れの一本杉」、「赤いランプの終列車」、「リンゴ村から」、「おんな船頭唄」、「喫茶店の片隅で」、「街のサンドイッチマン」、「東京の人」、「哀愁の街に霧が降る」、「月がとっても青いから」
こうして題名を並べるだけでも、こころが踊り出す方もいらっしゃると思います。そのさわり集を聞かせていただいたのです。
昭和20年代・・・敗戦直後、一億総ざんげがいわれ、徹底的に貧しかった時代。
ところがどっこい、「歌は元気」です。まさに「こころが踊り出す」――そんな活気があります。めそめそしていません。
20年代といえば、わたしには5歳から15歳。小学校から中学校にかけての時代です。地方で育ったせいで、戦災にも直接にはあっていません。
泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだり、転んだり、そして、立ち上がったり、田んぼでイナゴを探したり、小川に入ってメダカやタニシをとったり、いつも泥んこ、それでも入学式などできちんと「正装」したり、法被を着て祭りに出たり、チョウの採集に山野を駆け回ったり、バレーボールの部活の部屋で友人たちと話し込んだり、家でも学校でもしょっちゅう叱られていて・・・お手伝いもよくしたなぁ――とか、あの時代のことを走馬灯のように思い出していました。
そして、思ったのは、今回のタイトルに考えたような「焼け跡に」と画一的に括れるような時代ではなかった、ということです。
戦後を「貧しく、苦しかった、総ざんげ」の時代として振り返るのは、明らかに、観念的にすぎます。
「貧しく、苦しかった」のは事実だとしても、それは同時に、「戦時」という我慢の時代を抜け出した「再出発の時代」でした。再生日本そのものが、5歳から15歳ぐらいの段階だったといえるでしょう。
社会が、新しい未知の時代に向けて動き出した――そんな「自由と希望と活気」を、そして、そして「狂騒」の味付けを、あらためて、まとめて聞かせていただいた20年代の歌に感じました。
2019年07月12日
「表現する森の仲間たち」練習
昨日(11日)午後のチャイハナ光が丘は、秋山ちづるさんの臨時「ピアノ教室」です。成人の生徒たちに丁寧に教えていらっしゃいます。
そう思っていたら・・・、突然、朗読の声が聞こえてきました。お月さまとお日さまが会話しています。少年が、戦いに巻き込まれ、死んでしまいました。お月さまとお月さまは、そのことを悲しみ、怒っているのです。
そういえば、前回も、朗読の練習をしていらっしゃいました。
ピアノ教室のはずだのに、いったい、どういうことなのでしょう?
秋山さんたちは、「表現する森の仲間たち」という集まりを開いているのです。それに出演する井佐節子さんの練習でした。
次の発表会は、この14日(日)、場所は、大泉学園駅近くの練馬区勤労福祉会館、音楽室です。
デビューを控えた井佐さんの、最後の、仕上げの練習だったのです。
さて、その「表現する森の仲間たち」。
うたでも、朗読でも、ピアノでも、他の楽器でも、日本舞踊でも、西洋ダンスでも・・・なんでもいい。「人前で表現(プレゼン)してみたい方は、どうぞ。(でも、ちゃんと練習しておきましょうね)」――という集まりのようです。
7月14日が、44回目だといいます。
日本人がこういう風にプレゼンを重視するようになったこと。ある種、頼もしさを感じます。
わたし自身のことをいえば、表現(プレゼン)の重要性に気づいたのは、10年近く前、チャイハナを始めてからです。歌や朗読、ボイストレーニングなどを通して、その道のプロの方たちとの付き合うようになって、初めて気づきました。
それまで、(どちらかといえばですが、本音では))「表現(プレゼン)より、中身だろう」と考えていました。
しかし、中身がどれほど立派でも、声が届かなければ、何も言っていないのと同じことなのです。
伝えるということ、伝わるということ、そのための技術や訓練があるということ――その重要性。
もっと若いときに気づいていたらなぁ、という後悔があります。
しかし、「いまも、来年よりは若い!」(これ、生きる大原則です)
そう自分に言い聞かせて、もろもろの「訓練」に加えていただいています。
「表現する仲間たち」という<ことば(表現)>に、ある種の感動を覚えました。
そのことをメモしておきたい、と思います。
そう思っていたら・・・、突然、朗読の声が聞こえてきました。お月さまとお日さまが会話しています。少年が、戦いに巻き込まれ、死んでしまいました。お月さまとお月さまは、そのことを悲しみ、怒っているのです。
そういえば、前回も、朗読の練習をしていらっしゃいました。
ピアノ教室のはずだのに、いったい、どういうことなのでしょう?
秋山さんたちは、「表現する森の仲間たち」という集まりを開いているのです。それに出演する井佐節子さんの練習でした。
次の発表会は、この14日(日)、場所は、大泉学園駅近くの練馬区勤労福祉会館、音楽室です。
デビューを控えた井佐さんの、最後の、仕上げの練習だったのです。
さて、その「表現する森の仲間たち」。
うたでも、朗読でも、ピアノでも、他の楽器でも、日本舞踊でも、西洋ダンスでも・・・なんでもいい。「人前で表現(プレゼン)してみたい方は、どうぞ。(でも、ちゃんと練習しておきましょうね)」――という集まりのようです。
7月14日が、44回目だといいます。
日本人がこういう風にプレゼンを重視するようになったこと。ある種、頼もしさを感じます。
わたし自身のことをいえば、表現(プレゼン)の重要性に気づいたのは、10年近く前、チャイハナを始めてからです。歌や朗読、ボイストレーニングなどを通して、その道のプロの方たちとの付き合うようになって、初めて気づきました。
それまで、(どちらかといえばですが、本音では))「表現(プレゼン)より、中身だろう」と考えていました。
しかし、中身がどれほど立派でも、声が届かなければ、何も言っていないのと同じことなのです。
伝えるということ、伝わるということ、そのための技術や訓練があるということ――その重要性。
もっと若いときに気づいていたらなぁ、という後悔があります。
しかし、「いまも、来年よりは若い!」(これ、生きる大原則です)
そう自分に言い聞かせて、もろもろの「訓練」に加えていただいています。
「表現する仲間たち」という<ことば(表現)>に、ある種の感動を覚えました。
そのことをメモしておきたい、と思います。
2019年07月09日
95歳のお客様
本日(7月9日)のお客様、神田九十九さん(95)です。

写真の背後に、自由律俳句があります。
「樹海 霧沸き 羅針とつ然 狂いだす」
英訳もあります。
「Fog rising from woodland compass needle suddenly gose wild」
もう一句 「迷霧濃くなる 樹海 遠くで 銃声」
英訳 「Fog deepens turning woodland into a maze, distant gunshot」
相手役に、野澤節郎さん(86)をお願いしました。

さて、神田さん。
昭和20年8月15日の敗戦を、22歳か23歳で迎えました。
つまり、ひとりで大正、昭和、平成、明和と「4代」を生きてきた方です。
相手役をお願いした野澤節郎さんは、13日=土の第4回「昭和・歌の会」の中心人物です。第4回ともなると、昭和も中盤(初め)です。「20年代=戦後」を取り上げる予定です。
――その昭和20年代。わたしの場合は、5歳から15歳まで。幼稚園から小学校入学、そして、中学卒業に至る時期です。中心は、学校生活(教育)でした。いま、思い返して、平和、自由、民主主義を徹底的にたたき込まれた、という気がします。先生たちが、そういう雰囲気だったのでしょう。
神田さんの昭和20年代は、どうだったでしょう?
●神田さん「わたしは、徴兵検査を受けています。『乙種第2』でした。『甲種』なら、3カ月の訓練で促成将校です。士官学校出が後方で指揮をとり、促成の学徒将校は、最前線です。仲間がたくさん、死にました。
『乙種第1』も、第2陣として招集されました。前線に送られ、あちこちで(ニューギニア、シベリアなど地名が出たが、略)全員餓死とか、シベリア送りとか、いろいろひどい目にあっています」
●わたしは『乙種第2』でした。さいわい、召集される前に戦争が終わりました。
――終戦の知らせは「さいわい」でしたか? どんな気持ちでした?
●「複雑です。一口では言えない。わたしは生き残ったが、親友たち(具体的な説明があったが、略)は戦争で死にました(死に方についての説明も略)。そのことがずっと心に残った」
●「戦後の日本にすぐ溶け込んだ人もいた。しかし、わたしはそうはいかなかった。何だったのだろう? あの戦争は? 友人たちが犠牲になって、どんな意味があったのだろう? 考えて苦しんだ」
●「結局、救いとして行きついたのは、新憲法です。9条。戦争否定。戦争は暴力です。戦争という暴力に、友人たちは殺された」
――いけないのは、戦争でしょうか? 敗戦だったのではないですか?
●「??」
――せめて、敗戦の時期・・・1年前、あるいは半年前に降参していれば、原爆もないし、大空襲もない。ワシントンまで攻め込めるわけでもないことは常識でしょうに、なぜ、続けたのだろう? 残念です――(わたしの持論です)
●「いったん始めたことをやめるというのは、難しいことです」
・・・ ・・・
(この後、「負け戦」を自覚して退いた(?)東條内閣の商工大臣・岸伸介などの話も出ましたが、略、
正直に言えば、ただただ、95歳の弁舌と記憶の確かさに驚かされた時間でした)
写真の背後に、自由律俳句があります。
「樹海 霧沸き 羅針とつ然 狂いだす」
英訳もあります。
「Fog rising from woodland compass needle suddenly gose wild」
もう一句 「迷霧濃くなる 樹海 遠くで 銃声」
英訳 「Fog deepens turning woodland into a maze, distant gunshot」
相手役に、野澤節郎さん(86)をお願いしました。
さて、神田さん。
昭和20年8月15日の敗戦を、22歳か23歳で迎えました。
つまり、ひとりで大正、昭和、平成、明和と「4代」を生きてきた方です。
相手役をお願いした野澤節郎さんは、13日=土の第4回「昭和・歌の会」の中心人物です。第4回ともなると、昭和も中盤(初め)です。「20年代=戦後」を取り上げる予定です。
――その昭和20年代。わたしの場合は、5歳から15歳まで。幼稚園から小学校入学、そして、中学卒業に至る時期です。中心は、学校生活(教育)でした。いま、思い返して、平和、自由、民主主義を徹底的にたたき込まれた、という気がします。先生たちが、そういう雰囲気だったのでしょう。
神田さんの昭和20年代は、どうだったでしょう?
●神田さん「わたしは、徴兵検査を受けています。『乙種第2』でした。『甲種』なら、3カ月の訓練で促成将校です。士官学校出が後方で指揮をとり、促成の学徒将校は、最前線です。仲間がたくさん、死にました。
『乙種第1』も、第2陣として招集されました。前線に送られ、あちこちで(ニューギニア、シベリアなど地名が出たが、略)全員餓死とか、シベリア送りとか、いろいろひどい目にあっています」
●わたしは『乙種第2』でした。さいわい、召集される前に戦争が終わりました。
――終戦の知らせは「さいわい」でしたか? どんな気持ちでした?
●「複雑です。一口では言えない。わたしは生き残ったが、親友たち(具体的な説明があったが、略)は戦争で死にました(死に方についての説明も略)。そのことがずっと心に残った」
●「戦後の日本にすぐ溶け込んだ人もいた。しかし、わたしはそうはいかなかった。何だったのだろう? あの戦争は? 友人たちが犠牲になって、どんな意味があったのだろう? 考えて苦しんだ」
●「結局、救いとして行きついたのは、新憲法です。9条。戦争否定。戦争は暴力です。戦争という暴力に、友人たちは殺された」
――いけないのは、戦争でしょうか? 敗戦だったのではないですか?
●「??」
――せめて、敗戦の時期・・・1年前、あるいは半年前に降参していれば、原爆もないし、大空襲もない。ワシントンまで攻め込めるわけでもないことは常識でしょうに、なぜ、続けたのだろう? 残念です――(わたしの持論です)
●「いったん始めたことをやめるというのは、難しいことです」
・・・ ・・・
(この後、「負け戦」を自覚して退いた(?)東條内閣の商工大臣・岸伸介などの話も出ましたが、略、
正直に言えば、ただただ、95歳の弁舌と記憶の確かさに驚かされた時間でした)
2019年06月29日
川上泰徳 チャイハナ読書会「著者と語る」(6月29日)報告
お招きしたのは、川上泰徳さん。
対象の本は「シャティーラの記憶」(岩波書店)だ。
中東レバノンのパレスチナ人難民キャンプの人々100人以上にインタビューした記録をまとめている。
実は、昨日まで心配していた。
「だれも来ない」可能性があるのではないか?
なにしろ、(わたしたちと)なんの関わりもない、遠い中東の人々についての、300ページにも及ぶ大著だ。
ふたを開けてみて、びっくり。


10人近いご出席だ。うちとしては、満席に近い。
イランに駐在し、レバノンを50年前に訪れたという元商社マン。
USでユダヤ人実業家たちに助けられたという、やはり元商社マン。
パキスタンのアフガン難民と関わっている大学関係者。
敏腕の元テレビマン。
そして、普段、わたしの「世界はいま」に来ていただいている人たち・・・。
話の広がりが、面白い。
サウジ、エジプト、シリア、イラク、レバノンなどと分れる(しかし、一つの世界としての)「アラブ世界」が(わたし流にだが)具体的にイメージできるようになった。初めてのことだ。
(強引な理解だが、どこもアラブ=アラビア語の世界、日本でいえば、九州や四国、中国地方、近畿など・・・がそれぞれに「国」を名乗っている)
知っている人には常識だろうが、ヘブライ語のことも初めて知った。
大昔のユダヤ教の聖書の言葉。20世紀になって、復活させた。文字はあっても、(むかしの)発音(読み)は分からない。アラビア語などを参考に、(発音を)作り出した人造語だ。それが日常語になってしまう世界が、わたしには、想像を超えている。
つい最近の米トランプ大統領の「イラン開戦(10分前の回避)」も、話題になった。
「長い歴史のあるイランは、大人の国だ。変な挑発はしない。トランプは(アメリカにとって)なんの国益にも結び付かないのに、なぜ、イランを挑発するのだろう」(元テヘラン駐在商社マン)
議論はいろいろあったが、最後に出した、わたしの疑問。
「パレスチナ難民が、(あれから70年たった、そして、世代が変わったいまも)パレスチナ帰還を主張するということは、『難民』という暮らしを選ぶということではないだろうか? 自分にも子どもたちにも・・・」
川上さんは、「そうだ。その通りだ」といった。
イスラエルその他の政治情勢次第で、解決もありそうな口ぶりだ。
そうはいっても、個々の「幸せ」ということで、なんか、とてもつらいことのような気がする。
(長くなりそうだ、あえて)飛躍する。
そんな大きな枠組みの中で生きているのが、わたしたち人間ということなのだろうか。
「人間を描く」――それが、川上ルポの狙うとことだ、と本人が言っている。
対象の本は「シャティーラの記憶」(岩波書店)だ。
中東レバノンのパレスチナ人難民キャンプの人々100人以上にインタビューした記録をまとめている。
実は、昨日まで心配していた。
「だれも来ない」可能性があるのではないか?
なにしろ、(わたしたちと)なんの関わりもない、遠い中東の人々についての、300ページにも及ぶ大著だ。
ふたを開けてみて、びっくり。
10人近いご出席だ。うちとしては、満席に近い。
イランに駐在し、レバノンを50年前に訪れたという元商社マン。
USでユダヤ人実業家たちに助けられたという、やはり元商社マン。
パキスタンのアフガン難民と関わっている大学関係者。
敏腕の元テレビマン。
そして、普段、わたしの「世界はいま」に来ていただいている人たち・・・。
話の広がりが、面白い。
サウジ、エジプト、シリア、イラク、レバノンなどと分れる(しかし、一つの世界としての)「アラブ世界」が(わたし流にだが)具体的にイメージできるようになった。初めてのことだ。
(強引な理解だが、どこもアラブ=アラビア語の世界、日本でいえば、九州や四国、中国地方、近畿など・・・がそれぞれに「国」を名乗っている)
知っている人には常識だろうが、ヘブライ語のことも初めて知った。
大昔のユダヤ教の聖書の言葉。20世紀になって、復活させた。文字はあっても、(むかしの)発音(読み)は分からない。アラビア語などを参考に、(発音を)作り出した人造語だ。それが日常語になってしまう世界が、わたしには、想像を超えている。
つい最近の米トランプ大統領の「イラン開戦(10分前の回避)」も、話題になった。
「長い歴史のあるイランは、大人の国だ。変な挑発はしない。トランプは(アメリカにとって)なんの国益にも結び付かないのに、なぜ、イランを挑発するのだろう」(元テヘラン駐在商社マン)
議論はいろいろあったが、最後に出した、わたしの疑問。
「パレスチナ難民が、(あれから70年たった、そして、世代が変わったいまも)パレスチナ帰還を主張するということは、『難民』という暮らしを選ぶということではないだろうか? 自分にも子どもたちにも・・・」
川上さんは、「そうだ。その通りだ」といった。
イスラエルその他の政治情勢次第で、解決もありそうな口ぶりだ。
そうはいっても、個々の「幸せ」ということで、なんか、とてもつらいことのような気がする。
(長くなりそうだ、あえて)飛躍する。
そんな大きな枠組みの中で生きているのが、わたしたち人間ということなのだろうか。
「人間を描く」――それが、川上ルポの狙うとことだ、と本人が言っている。
2019年06月26日
川上泰徳「シャティーラの記憶」読中記録2
<川上泰徳さんの本を読みながら、次に思ったのは、「権力者と暴力」ということです。圧倒的な暴力装置を手にした権力者たち。彼らはなぜ「(理不尽な)暴力」を行使したがるのでしょう?>
川上泰徳 『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』
読中記録A 吉村文成
2)権力者と暴力
パレスチナの若者たちを壁の前に並ばせて、一斉射撃で撃ち殺す。情報機関の事務所に連れ込んで、殴るけるの暴行――イスラエル当局、関係者による「(理不尽な)暴力」の経験が、次から次へと紹介されています。歴史に残る、いくつもの「(数千人規模の)虐殺」事件の数々も、そうした「暴力」の一部でしょう。
圧倒的に強力な暴力装置を持ち、圧倒的に有利な立場にある人々が、どうしてこうも残虐に振舞えるのか?
本書に、答がありました。
「抵抗の(気持ち)を失わせる」
究極的には、「人間としての尊厳を奪う」ということでしょう。
(もしかしたら、そうでもしないと自分たちの立場が失われるという「恐怖心」が、底にあるのかもしれません)
ともあれ、建暦者の暴力は、かつてのパレスチナだけのことではありません。
中国の新疆ウイグル自治区で、ラマ教徒たちの住むチベットで、いまも(まさに今日も)同じような暴力が振るわれているのは、間違いありません。
それ以外にも、世界各地でいまも続いていることだと思います。
見方を変えてみます。パレスチナ人の悲劇は、1948年のイスラエル建国に始まりました。あのとき追われた故郷に帰りたい。その願いは、ごく自然に理解できます。
しかし、「イスラエル建国」は、その事実あるいはプロセスに大きな間違いがあったとしても、いまとなっては、どうにも否定しようもない歴史の現実です(わたしにいわせれば、歴史というのは「間違い」が普通のことです)。
その現実を(つまり「間違い」を)容認するなら、そして、イスラエルの立場に立って考えるなら、パレスチナ人の抵抗者たちは、いわば国づくりを妨害する暴力団のようなものです。
まったくもって不適切な例えに違いありません。でも、続けてみます。一種の思考実験です。
見る立場によっては、イスラエルとパレスチナ抵抗組織の関係は、兵庫県警と山口組の関係に似ています。山口組は「社会の敵」です。そして、マスコミや市民が山口組を「敵視し」、(ことばだけのこととはしても)「ほとんど暴力的に扱ってきている」のも、明白な事実です。
そういうことをどう考えるか?
わたしたちは、暴力的です。
「正義」という権力を背後に持っているからです。
そのことを、少なくとも「意識して」いたいと思います。
「(理不尽な)暴力」の主体としての権力を警戒する。そのことは、自分自身のこころのうちの「正義」を警戒することにつながっています。
(つづく)
川上泰徳 『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』
読中記録A 吉村文成
2)権力者と暴力
パレスチナの若者たちを壁の前に並ばせて、一斉射撃で撃ち殺す。情報機関の事務所に連れ込んで、殴るけるの暴行――イスラエル当局、関係者による「(理不尽な)暴力」の経験が、次から次へと紹介されています。歴史に残る、いくつもの「(数千人規模の)虐殺」事件の数々も、そうした「暴力」の一部でしょう。
圧倒的に強力な暴力装置を持ち、圧倒的に有利な立場にある人々が、どうしてこうも残虐に振舞えるのか?
本書に、答がありました。
「抵抗の(気持ち)を失わせる」
究極的には、「人間としての尊厳を奪う」ということでしょう。
(もしかしたら、そうでもしないと自分たちの立場が失われるという「恐怖心」が、底にあるのかもしれません)
ともあれ、建暦者の暴力は、かつてのパレスチナだけのことではありません。
中国の新疆ウイグル自治区で、ラマ教徒たちの住むチベットで、いまも(まさに今日も)同じような暴力が振るわれているのは、間違いありません。
それ以外にも、世界各地でいまも続いていることだと思います。
見方を変えてみます。パレスチナ人の悲劇は、1948年のイスラエル建国に始まりました。あのとき追われた故郷に帰りたい。その願いは、ごく自然に理解できます。
しかし、「イスラエル建国」は、その事実あるいはプロセスに大きな間違いがあったとしても、いまとなっては、どうにも否定しようもない歴史の現実です(わたしにいわせれば、歴史というのは「間違い」が普通のことです)。
その現実を(つまり「間違い」を)容認するなら、そして、イスラエルの立場に立って考えるなら、パレスチナ人の抵抗者たちは、いわば国づくりを妨害する暴力団のようなものです。
まったくもって不適切な例えに違いありません。でも、続けてみます。一種の思考実験です。
見る立場によっては、イスラエルとパレスチナ抵抗組織の関係は、兵庫県警と山口組の関係に似ています。山口組は「社会の敵」です。そして、マスコミや市民が山口組を「敵視し」、(ことばだけのこととはしても)「ほとんど暴力的に扱ってきている」のも、明白な事実です。
そういうことをどう考えるか?
わたしたちは、暴力的です。
「正義」という権力を背後に持っているからです。
そのことを、少なくとも「意識して」いたいと思います。
「(理不尽な)暴力」の主体としての権力を警戒する。そのことは、自分自身のこころのうちの「正義」を警戒することにつながっています。
(つづく)
2019年06月25日
川上泰徳「シャティーラの記憶」読中記録@
川上泰徳 『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』
読中記録@ 吉村文成
次の土曜(29日)、著者の川上泰徳さんをお招きして、上記書籍の合評会「著者と語る」を開催します。遠くからでも、ぜひ、ご来場ください。
さて、なにはともあれ。会合の主催者として本を読んでおかなければなりません。数日前から読み始めました。まだ、半分近くぐらいまでしか読んでいないので、いわゆる読後感は書けません。でも、読みながら思うことはたくさんあります。読み終わるまで待てない。そんな気持ちで、「読中記録」を始めたいと思います。
1) これは、日本語表現(文章)の金字塔です。
まず思ったことです。
日本語表現(文章)の地平を広げました。この点は、例えば、源氏物語や平家物語、あるいは、記録文学としてみるなら、柳田邦男の「遠野物語」や本田勝一の「カナダ・エスキモー」などに並べることができます。
なぜ、そんなことを思ったか?
読む前の、小さな疑問が出発点です。
日本から遠く離れた、中東レバノンにある、0.1平方`ほどのごく小さな難民キャンプが舞台です。わたしたち日本人の日々を考えると、そこに暮らす人々のことは、ほとんど関係ありません。
そんな「(自分たちと)ほとんど関係ない」社会についての延々300ページにもわたる大著――それが「日本語で」出版され、わたしたちが「読む」ということ。いったい、どれほどの意味があるでしょう?
読み始める前、そんな疑問が頭の片隅にありました。
そして、読み進めながら気づいたのです。
第一に、この書物はわたしたちの(つまり、日本語の)「知識=情報」の幅を広げました。こんな書物を通して、わたしたちの世界が広がる――とても、ありがたいことです。
第二に、川上さんの「文章表現」について思いました。
わたし自身がかつてその世界にいたからよく分かるのですが、ちょっと現場で採取したことばからはいる。ちょっと目で見、耳で聞いた情報を入れて「現場感」を出す。それから、本論に入る。これは、普通のルポあるいは現場報告の常とう手段です(そして、わたし自身についていえば、このごろ、いささか食傷気味です)。
川上さんの文章は、そういう普通のルポのレベルを超えています。4年間、100人を超す人々との詳細なインタビュー。微細な観察。それらをつないで、川上さんが描き出したのは、中東というひとつの世界、そして、その歴史の全体です。場所や人々の空気感まで伝わってきます。
なぜ「(読者が)知らない」「(読者とほとんど)無関係な」世界のことを、こんなにも生き生きと伝えることができたのか?
そんなことを考えながら「あとがき」をめくっていて、次の文章に出会いました。
「取材が3年目となり、(インタビューの対象が)100人を過ぎたころに、シャティーラを舞台にして、それぞれの事件や時代ごとにうごめく人間の集団が見えてくるような感覚があった」
100人を超すインタビュー・・・、その果てに「人間の集団が見えてくるような感覚」――そんな感覚を持つ瞬間があったということ。かつて、同じ取材者という集団に属したことがある一人として、こころの底から「うらやましい」と思いました。
あとはおそらく、その「感覚」にかたちをあたえるだけだったのではないでしょうか?
新しい文体、新しい取材スタイル。それを、わたしはこの著書に感じます。
吉村文成(続く)
2019年06月20日
明後日です 長島潤さんの「弾き語り」コンサート
2019年06月08日
「わたしにとっての文章」
本日、21歳の若い女性がお見えになりました。
「ペンの森」という(今どき珍しい)マスコミ就職塾の塾生さんです。
いま、まさにもろもろの入社試験の最中ということです。
先日、「ジャカルタ新聞」で働く先輩のお話しを聞く会合でお目にかかった方です。
チャイハナ光が丘のエッセイクラブに興味をお持ちでした。
過去のエッセイクラブの原稿をいくつか、お目にかけました。
そこで出てきたひとつが、わたし自身の以下の原稿です。
2014年9月の出稿です。
書いたことも、内容も、記憶から消えていました。
でも、読み直して、重要な情報だな、このまま朽ちさせてはならない、と思いました。
近松門左衛門が、スペイン宣教師らが隠れて演じた「スペイン詩劇」の影響を受けているという話です。
だれか、興味を持ちませんか?
わたしにとっての文章 吉村 文成
書けなかった文章の話を書く。
もう四年前になる。一冊の本を紹介された。『口伝解禁・近松門左衛門の真実』(中央公論新社、二〇〇三年)である。著者の近松洋男氏は、京都外語大学スペイン語科教授。京都の老舗旅館・近江屋の九代当主でもある。近松氏によると、近江屋は忠臣蔵の討ち入りに登場する赤穂浪士の一人・近松勘六の遺児を近松門左衛門が極秘裏に養子とし、始めさせた旅籠である。幕末に坂本竜馬ら勤皇の志士が拠点としたことでも知られる。
近松の生涯については江戸時代から研究が行われてきたが、三十代初めに作品を発表するまでの期間は「空白の十年」として、まったく分かっていない。ところが、その間の消息を、近江屋代々の当主が極秘の「口伝」として伝えてきた、という。
驚くべき内容である。
江戸幕府が始まって半世紀あまり、元禄の爛熟期に向かって、戦国から江戸初期にかけての激動がしだいに収まりつつあった時代である。幕府は朝廷への規制を強め、その一方で、これに反発する播州赤穂藩や長州藩が、ひそかに朝廷を支援した。そんな中で、赤穂藩の藩医・近松伊看の養子となった門左衛門は、赤穂藩から御所に派遣され、帝弟・一条恵観の側近として有職故実を学ぶ。
塩の大量生産に成功した赤穂藩は、独自の販売ルートの開拓をひそかに企む。大津・三井寺奥の小寺に「塩の道塾」を開き、鎖国で帰国の機会を失ったキリスト教宣教師や長崎の海賊衆の残党を集めて航海術や西洋簿記などを研究させた。その塾頭を務めたのが、近松門左衛門である。このとき、スペイン人宣教師らが自らの慰めに演じたスペイン詩劇は、後の近松作品に影響しているという。
赤穂藩が次に近松に命じたのが、実際の「塩の道」づくりだ。近松は、長州・長門港を基地に各地の運送業者や倉庫業者を訪ね、秘密の交易ルートをつくりあげた。海賊衆の密輸船に乗って琉球も訪ねた。この経験は後に、名作『国姓爺合戦』に結実する。
これはドラマだ、と思った。
まず、登場人物がすごい。近松はもちろんとして、大石内蔵助、芭蕉や綱吉といった大物をいくらでも登場させられる。スペイン人宣教師などで国際性も出せる。また、「塩の道」づくりで全国を回るところは、道中物だ。桃太郎やハリー・ホッターの例を出すまでもなく、旅は物語の重要な要素である。
因縁も、いろいろとある。忠臣蔵で討たれる高家・吉良上野介は、禁中並公家後法度などを定めた、朝廷いじめの張本人である。塩田開発を進めていた吉良家と浅野家との関係は、幕府方対朝廷方の経済戦争と読み解くことができる。
そして、ペンぺんぺんと序破急で鳴る浄瑠璃三味線の音!
自分でいうのも妙だが、わたしは意外に感激屋だ。テレビドラマや映画を見ていて、しょっちゅう涙ぐむ。ときに、涙が止まらなくなる。同時に、そんな風にわたしを感激させる、演出の仕掛けも分かる気がする。
「計算づく」で人々を泣かせ、そして、ハラハラドキドキさせながら引っ張る――そんなドラマが書けるのではないか?
この本を知ってまもなく、わたしは定年退職を迎えた。「近松」をシナリオにしてみたいと思った。意識的にテレビドラマを見た。ドラマ雑誌もいくつか読んだ。
そして、知った。わたしの感覚は、時代とずれている。場面のイメージは浮かんでも、それをキャラクターやストーリーで肉付けする能力は、わたしにはない。
だから、これはわたしにとっての「書けなかった文章」の話なのだ。
2019年06月01日
「現代中国」は、古代王朝システムへの復帰(?)
(久しぶりに「大説」を書いてしまいました。6日の「世界はいま」でお話ししようと思っていることの一部です。ともあれ、わたしなりに考えを整理してみました)
習近平の中国(つまり、現代中国)は、隋、唐、宋、元、明、清と続いてきた、中国・歴代王朝システムへの復帰ではないだろうか? あの国としては、歴史的に有効性の証明されている仕組みであり、結局、そこに戻るしかなかったのではないだろうか?
そして、中国共産党という「行政、司法などといった一般体系の外?」の「統治システム」は、歴代王朝に戻るなら、やはり「体系外体系」だった「宦官」に対比できるのではないだろうか?
――そんなことを、ふと、考えてしまいました。もちろん、それが現代中国の「真実」だと主張する気はさらさらありません。きっと各方面から叱られるだろうな、という思いもあります。でも、それで理解が進むような気もする。そんな「説明のための仮説」として紹介してみます。
こんなことを考えたきっかけは、米中貿易戦争です。
実は、毎月1度、第一木曜に「世界はいま」と題して、前月の国際ニュースの解説をしています。もとはといえば、チャイハナをオープンする以前のNHKカルチャーセンター(光が丘)の講義、さらには朝日新聞退職のころ、「衛星チャンネル」で受け持った番組の延長です。だから、優に20年以上続けてきた、わたしの国際ニュース解説ともいえます。
ということで、いま、5月に生起した国際ニュースに取り組んでいるところです。
さて、米中貿易戦争についていうと、もとはいえば、トランプが16年の選挙運動中に訴えた米国の貿易赤字の金額という「数字の問題」でした。それが、米中交渉の過程で「体制問題」に転化しました。なぜでしょう?
トランプにしてみれば、簡単に妥協せず、中国と強気にやり合う――そんな姿勢が、次の大統領選に都合がいいのは、分かり切ったことです。絶対に、妥協しないでしょう。他方、習近平もまた、「体制」に手を突っ込まれるのは耐えがたいことです。
そんなこんなを勘案して行きついた、現代世界情勢――こんな風に(仮に)総括してみました。
――<グローバル化+ブロック化+ローカル化>の同時進行――
「グローバル化」は、ここ数十年続いてきた世界の趨勢です。技術、情報、人々の交流・・・間違いなく世界規模に広がっています。
「ブロック化」は、米中対立を基幹とする、体制選択の問題です。一応「民主主義」をとるか、それとも、中国流の専制主義を取るか?
「ローカル化」は、たとえばトランプの「アメリカ第1」、あるいは、EU議会選におけるポピュリズム政党の進出などに見てとれます。
問題は、第2の「ブロック化」です。体制選択の問題としましたが、どういう体制があるのか?
出発点として、「民主主義」という(政治)体制を考えてみます。
具体的な仕組としては、@相似た(同意できる)意見の持ち主が「政党」を結成し、A主権者である国民の投票で、より多くの票を得た政党が政権を担当する B各政党の話し合い(議会制度)で国や自治体の方針(法律など)を決める――などの点が指摘できます。
でも、それがいま行き詰ってきている、ということはないでしょうか?
あるいは、ある種の変質を迫られていないでしょうか?
行き詰まってきたと考える要因として、私が考えるのは次の2点です。
ひとつは、情報メディアの変化です。マスメディアの時代、一人ひとりの意見は、「似たような意見」に集約されました。そうした「似たような意見」を受けとめたのが政党です。そこでもまた、多様な意見は議論を通して練られ、中庸とでもいえる意見に収斂しました。そのように「中庸に収斂した意見」のぶつかり合いだったからこそ、議会も機能しました。
いま、SNSといわれるメディアが登場し、一人ひとりが自らの意見をそのままに発信できます。中庸も収斂もありません。むしろ、極論が好まれる傾向があります。議論の難しい、社会としては、ばらばらになる方向につながります。
第二の要因は、(もともとからあったことですが)スケールの問題です。
民主主義はもともと古代ギリシャのポリスで成功した仕組みです。人口はたかだか数万、奴隷という存在に支えられ、市民はたがいに顔見知りの社会です。それが、全員が奴隷であり、同時に市民でもある、数千万、数億の社会で成り立つものかどうか?
そして、この大スケールの社会には、もうひとつ重要な「断点」があります。もともと宗教、民族(言語)、地域などで分断された、いくつもの別々の集団の寄り集まりだということです。
そんな社会に「民主主義」が期待できるでしょうか? 「似たような意見」をもとにした政党の結成が可能でしょうか?
(例えば中国相手に「民主化」などということが、簡単にいえるでしょうか?)
もし、民主主義が無理だとすると、別の仕組みを考えなければなりません。
その可能性の一つとして思い浮かんだのが、中国古来の王朝システムです。東洋史学者たちは、王朝の「盛時」や「賢明で慈悲深い」名君のことを嬉々として記しています。
そして、現代王朝システムには、古代王朝にはなかった強力な武器があります。
AIです。AI監視、AI監督・・・統治者には、この上ない都合のよい道具でしょう。抑圧と紙一重だとしても、社会の安定は保たれるでしょう。
ただし、わたしの立場としては、可能性としては考えても、最終的に肯定するものではありません。重要な欠陥があります
第一に、「人権」という観点からして、許せる仕組みではありません。人権蹂躙と「紙一重」どころか、「人権蹂躙」そのものが基本的に内包されています。
第二に、平和的な政権交代の仕組みがありません。「賢明でも慈悲深くもない」君主に対抗する方法が(暴力の組織化以外に)ありません。「易姓革命」は、まさに、政権交代に伴う大流血を想定しています。
「習近平王朝」が、これらの欠陥を超える道を見つける可能性は見えません。
「体制戦争」のもう一つの側、米国あるいは西側は、どうでしょうか?
「行き詰った」民主主義を、現代に順応させる道を見つけられるでしょうか?
いまのところ、「模索している」としか、言いようがないように思います。民主主義ということばを捨てないで、社会の安定をどう維持するか?
永遠に続く模索なのかもしれません。
ただ、そこでひとつ思うのが、「ローカル化」ということす。権限あるいは権力の地方分散。それによる「規模の問題」の克服――そのように考えると、たとえばEU議会選挙におけるポピュリズム政党の台頭も、必ずしも否定的に見る必要はなくなります。
この文章の出だしで、「世界のいま」を総括して次のように仮定してみました。
<グローバル化+ブロック化+ローカル化>の同時進行
「ローカル化」をあえて入れた理由は、上記の通りです。日本もまた、忘れてはならない視点だと思っています。
(以上、とりあえず・・・)
習近平の中国(つまり、現代中国)は、隋、唐、宋、元、明、清と続いてきた、中国・歴代王朝システムへの復帰ではないだろうか? あの国としては、歴史的に有効性の証明されている仕組みであり、結局、そこに戻るしかなかったのではないだろうか?
そして、中国共産党という「行政、司法などといった一般体系の外?」の「統治システム」は、歴代王朝に戻るなら、やはり「体系外体系」だった「宦官」に対比できるのではないだろうか?
――そんなことを、ふと、考えてしまいました。もちろん、それが現代中国の「真実」だと主張する気はさらさらありません。きっと各方面から叱られるだろうな、という思いもあります。でも、それで理解が進むような気もする。そんな「説明のための仮説」として紹介してみます。
こんなことを考えたきっかけは、米中貿易戦争です。
実は、毎月1度、第一木曜に「世界はいま」と題して、前月の国際ニュースの解説をしています。もとはといえば、チャイハナをオープンする以前のNHKカルチャーセンター(光が丘)の講義、さらには朝日新聞退職のころ、「衛星チャンネル」で受け持った番組の延長です。だから、優に20年以上続けてきた、わたしの国際ニュース解説ともいえます。
ということで、いま、5月に生起した国際ニュースに取り組んでいるところです。
さて、米中貿易戦争についていうと、もとはいえば、トランプが16年の選挙運動中に訴えた米国の貿易赤字の金額という「数字の問題」でした。それが、米中交渉の過程で「体制問題」に転化しました。なぜでしょう?
トランプにしてみれば、簡単に妥協せず、中国と強気にやり合う――そんな姿勢が、次の大統領選に都合がいいのは、分かり切ったことです。絶対に、妥協しないでしょう。他方、習近平もまた、「体制」に手を突っ込まれるのは耐えがたいことです。
そんなこんなを勘案して行きついた、現代世界情勢――こんな風に(仮に)総括してみました。
――<グローバル化+ブロック化+ローカル化>の同時進行――
「グローバル化」は、ここ数十年続いてきた世界の趨勢です。技術、情報、人々の交流・・・間違いなく世界規模に広がっています。
「ブロック化」は、米中対立を基幹とする、体制選択の問題です。一応「民主主義」をとるか、それとも、中国流の専制主義を取るか?
「ローカル化」は、たとえばトランプの「アメリカ第1」、あるいは、EU議会選におけるポピュリズム政党の進出などに見てとれます。
問題は、第2の「ブロック化」です。体制選択の問題としましたが、どういう体制があるのか?
出発点として、「民主主義」という(政治)体制を考えてみます。
具体的な仕組としては、@相似た(同意できる)意見の持ち主が「政党」を結成し、A主権者である国民の投票で、より多くの票を得た政党が政権を担当する B各政党の話し合い(議会制度)で国や自治体の方針(法律など)を決める――などの点が指摘できます。
でも、それがいま行き詰ってきている、ということはないでしょうか?
あるいは、ある種の変質を迫られていないでしょうか?
行き詰まってきたと考える要因として、私が考えるのは次の2点です。
ひとつは、情報メディアの変化です。マスメディアの時代、一人ひとりの意見は、「似たような意見」に集約されました。そうした「似たような意見」を受けとめたのが政党です。そこでもまた、多様な意見は議論を通して練られ、中庸とでもいえる意見に収斂しました。そのように「中庸に収斂した意見」のぶつかり合いだったからこそ、議会も機能しました。
いま、SNSといわれるメディアが登場し、一人ひとりが自らの意見をそのままに発信できます。中庸も収斂もありません。むしろ、極論が好まれる傾向があります。議論の難しい、社会としては、ばらばらになる方向につながります。
第二の要因は、(もともとからあったことですが)スケールの問題です。
民主主義はもともと古代ギリシャのポリスで成功した仕組みです。人口はたかだか数万、奴隷という存在に支えられ、市民はたがいに顔見知りの社会です。それが、全員が奴隷であり、同時に市民でもある、数千万、数億の社会で成り立つものかどうか?
そして、この大スケールの社会には、もうひとつ重要な「断点」があります。もともと宗教、民族(言語)、地域などで分断された、いくつもの別々の集団の寄り集まりだということです。
そんな社会に「民主主義」が期待できるでしょうか? 「似たような意見」をもとにした政党の結成が可能でしょうか?
(例えば中国相手に「民主化」などということが、簡単にいえるでしょうか?)
もし、民主主義が無理だとすると、別の仕組みを考えなければなりません。
その可能性の一つとして思い浮かんだのが、中国古来の王朝システムです。東洋史学者たちは、王朝の「盛時」や「賢明で慈悲深い」名君のことを嬉々として記しています。
そして、現代王朝システムには、古代王朝にはなかった強力な武器があります。
AIです。AI監視、AI監督・・・統治者には、この上ない都合のよい道具でしょう。抑圧と紙一重だとしても、社会の安定は保たれるでしょう。
ただし、わたしの立場としては、可能性としては考えても、最終的に肯定するものではありません。重要な欠陥があります
第一に、「人権」という観点からして、許せる仕組みではありません。人権蹂躙と「紙一重」どころか、「人権蹂躙」そのものが基本的に内包されています。
第二に、平和的な政権交代の仕組みがありません。「賢明でも慈悲深くもない」君主に対抗する方法が(暴力の組織化以外に)ありません。「易姓革命」は、まさに、政権交代に伴う大流血を想定しています。
「習近平王朝」が、これらの欠陥を超える道を見つける可能性は見えません。
「体制戦争」のもう一つの側、米国あるいは西側は、どうでしょうか?
「行き詰った」民主主義を、現代に順応させる道を見つけられるでしょうか?
いまのところ、「模索している」としか、言いようがないように思います。民主主義ということばを捨てないで、社会の安定をどう維持するか?
永遠に続く模索なのかもしれません。
ただ、そこでひとつ思うのが、「ローカル化」ということす。権限あるいは権力の地方分散。それによる「規模の問題」の克服――そのように考えると、たとえばEU議会選挙におけるポピュリズム政党の台頭も、必ずしも否定的に見る必要はなくなります。
この文章の出だしで、「世界のいま」を総括して次のように仮定してみました。
<グローバル化+ブロック化+ローカル化>の同時進行
「ローカル化」をあえて入れた理由は、上記の通りです。日本もまた、忘れてはならない視点だと思っています。
(以上、とりあえず・・・)
2019年05月07日
<平和憲法+日米安保>体制 憲法記念日に寄せて
「<平和憲法+日米安保>体制」について
憲法記念日によせて
ちょっと古い話になりますが、3日は、憲法記念日でした。
その前日、たまたまなのですが、チャイハナトーク「世界はいま」で、日本国憲法(とくに9条)を取り上げました。
1952年4月28日、サンフランシスコ講和で(占領から解放され)主権を回復してからの日本は、基本的に、「<平和憲法+日米安保>体制」でやってきた。これは、憲法と日米安保を不可分のセットとする、実質的には半独立(半主権)の仕組み。これまではそれでよかったにしても、米国が世界政治から後退傾向を示し、中国が強大化してきたいま、この体制やその基礎となっている日本国憲法について考え直すことが必要ではないか――。
そんな考えです。2日のトーク「世界はいま」に沿って説明してみます。
その前に、一言触れておくと、このトークは毎月、第1木曜の午前に、先月(今回でいえば4月)の国際ニュースを中心に解説(というより話題提供)をしているものです。チャイハナを開く前、NHKカルチャーセンターで行っていた講義を移したものなので、10年以上続いていることになります。心から感謝していることですが、NHK時代から参加していただいている方も数人いらっしゃいます。
1) トークでまず取り上げたのは、4月28日という日付です。
67年前1952年のこの日にサンフランシスコ講和条約が締結されました。
別のいい方をすれば、45年8月の敗戦以来、連合軍の占領下にあった日本は、この日、あらためて主権を回復しました。主権回復というのは、最高権力が、連合国最高司令官(総司令部)から日本国民に移ったという意味です。戦後日本の「独立記念日」といってもよいでしょう(註、72年まで米軍占領下におかれた沖縄には「屈辱の日」です)。
しかし、「憲法記念日」や「こどもの日」はあっても、「主権回復の日」という記念日はありません。「主権回復」というのは、いいかえれば「独立」ということ。しかし、そう考えることができない事情があった、とわたしは解釈しています。
というのは、4月28日には、もうひとつ重要な意味があるからです。日米安保条約が発効した日だということです。51年9月8日に吉田茂が調印し、52年4月28日、三℉蘭シスコ条約が調印された、その日に発効しました。
このふたつの組み合わせですが、この日以後の日本の根本は、次の定式で表されるとわたしは考えています。
<平和憲法+日米安保>体制 ・・・・@
冷戦の時代、西側に身を置きながら「非武装」を守ろうとするなら、防衛はよそに(つまり米国に)頼るしかないという判断は、仕方のないものだったでしょう。
もちろん、当時の左翼が主張したように、「非武装中立」という位置取りも考えられます。しかし、手前勝手にできることではないし、現実的な選択とは考えられません。
一方、日本国憲法は、46年11月3日に公布され、47年5月3日に施行されています。占領時代です。九条については、発案者が日米どちらであったとしろ、「二度と真珠湾攻撃のようなことはさせない」という占領軍(最高権力)の意思と、「戦争なんてアホくさいことは二度とご免だ」という、敗戦と戦争の悲惨を体験した日本側の想いが結合した結果として理解できます。
繰り返すと、52年4月28日、日本国民は表面上、主権を回復しました。しかし、同時に日米安保を受けいれたことで、実質的には「半独立」という状態だった、といえます。「主権回復」を強調すれば、その「半独立」がなおさら強く意識されます。
2) <平和憲法+日米安保>体制@は、東西が厳しく対立した冷戦時代、日本としては、止むを得ない選択だったのだろうという考えを記しました。しかし、そのような「半独立」状態を、いつまで、続ける必要があるのか?
この体制@が意味するのは、平和憲法と日米安保は一組のセットであり、片方だけでは、「体制」そのものが成立しないということです。平和憲法を護ろうとすれば日米安保は欠かせないし、他方、改憲・再武装の立場に立てば、安保は不要です。
ところが、わたしたちが繰り返してきた議論では、左は「日米安保反対」をいいながら護憲を主張し、右は「改憲」をいいながら日米安保に頼る――ある種の「ねじれ」があったように思えます。
なぜ、そんなおかしなことになったのか?
これは、疑問にとどめます。
3) 平成の30年間は、「脱冷戦」の30年間でした。この30年間の経験をどう受け止めるか?
平成元年は、1989年1月8日に始まります。
ベルリンの壁が崩壊するのが、同年11月。暮れの12月には、米ソがマルタ会議で正式に冷戦の終結を宣言します。平成は「脱冷戦」とともに始まりました。
さて、この「脱冷戦」の30年間で世界はどう変わったか?
平成元年ごろ、盛んにいわれたのが、「日米欧・三極時代」ということでした。
時代はかなり下がりますが、2009年2月、オバマ大統領(当時)の就任式に臨んだ麻生首相(当時)は、こんなことをいっています。
「(世界には)数多くの問題があるが、世界第1位、第2位の経済大国である日米が協力して取り組まなければならない」
この翌年(2010年)、GNPで中国に抜かれたことを考えると、とんでもない思い上がりですが、そのころはまだ、日本の最高指導者ですら、そんなことを考えていたのです。
平成時代が終わったいま思うと、この30年間の世界の大まかな変化として指摘できるのは、次の二点です。
まず、30年前に冷戦終結のころ、世界をリードするだろうといわれていた日米欧の三極がそろって、縮みました。とくに沈んだのが、日本です(データは省略)。欧州も、英国の離脱問題などゴタゴタしています。
重要なのは、米国の沈み方です。「冷戦の勝者」として世界に君臨するはずだったのに、いまは、「アメリカ第一」をいわなければならない状況です。「攻め」から「守り」に転じたともいえるでしょう。
第二の変化は、中国の伸長です。
これについては、後で説明します。
4) この「日米欧の三極が縮み、中国がのしてきた」、時代の変化にどう対応するか?
それが、いま始まった令和の時代の課題だと思います。
まず、「縮んだ(縮もうとする)米国」に対してどう向き合うか?
パックス・アメリカ―ナの時代なら、「大国」米国を受容するか、反発するか、いずれにしても、対応はシンプルでした。しかし、「(縮もうとする)大国」相手となると、話が厄介です。「どうぞ」と受け入れると、日本は<憲法+日米安保>体制@の一方を欠くことになります。この体制を維持したいのであれば、「そこをなんとか、頑張って」と米国を引き留めることが必要です。
次に、「力をつけた」中国に対してどう付き合うか?
彼の国が「力をつけた」内容は、次の三語で表現できると思っています。「強力・金満・強権」の三語です。
まず、「強権」――。考えてみると、マルクス・レーニン主義の「労働者独裁」は権力奪取の方法論でした。権力を獲得し、国家という集団を運営する方法論ではありません。権力を獲得した共産党が、「労働者独裁」の方法論に従うなら、党による「強権」は仕方のないことです。避けられない体質といってよいでしょう。
「金満」――これは、いちいち言う必要はないでしょう。一帯一路でばらまいているし、市場としても、製造工場としても、日本やアメリカにとっても、経済的に一定の欠かせない位置を占めています。
「強力」――は、もちろん軍事力のことです。この国の軍事力強化には、明確な問題があるとわたしは考えています。「台湾解放(奪取)」という国是とつながっていることです。
「ひとつの中国」という原則がある限り、チベットや新疆ウイグル地区などを含めた、あの大領域の権利を主張しようとするなら、「台湾解放」の旗は降ろせません。また、共産党支配は国共内戦の結果であり、台湾問題はその内戦の延長です。すると、「台湾解放」は、そのまま政権の正統性の問題ということになります。
しかし、「台湾解放」は、現代にあっては、領土の要求そのものです。そのような目的をもった軍事力が防衛的だとみることはできません。明確な「攻撃目的」をもつ、即時的軍事力です。チャンスがあれば、実力行使に出るのが当然です。
そのような中国をどう評価するか?
どう付き合うか?
あの国の望む、「攻撃のチャンス」をあたえてよいのか?
それとも、戦争の防止を優先するか?
近隣国として、問われる課題だと思います。
5) 見る角度を変えます。
「前項の目的を達するために」という制約はあるにしても、「交戦権」を否定した憲法9条は、宇宙戦争やサイバー戦争がいわれるようになった、現代の戦争に対応しているでしょうか?
わたしには、そうは思えません。
交戦権とはなにか、という法律論が必要でしょう。しかし、わたしにその能力はないので、感覚で話します。わたしには、九条は、領土を奪い合って、小銃を手にした兵士らが最前線で激闘を繰り返した、旧時代の戦争を前提にしているように思えます。
例えば、電力や交通網の破壊といったサイバー攻撃を考えてみます。これは「武力」でしょうか? これを「防ぐ」のは、多分、大変なことです。手っ取り早いのは、「反撃」という攻撃手段を持つことでしょう。そういう点についても、「武力」として手を縛る必要があるでしょうか?
以上、2日のトーク「世界はいま」で、たまたまなのですが、67年前の4月28日という日付に拘泥したことで考えついた、わたしなりの「日本国憲法論」です。立論の各論にはいろいろ問題があるかと、自分でも思っています。しかし、時代の変化に合わせて、国の在り方の根本<憲法>を考え直すのは大切なことだし、いまがそのチャンスなのかもしれないという、わたしの考えはご理解いただけると思います。
念のためですが、わたしのいう「憲法を考え直す」は、決して「自衛隊を明記する」といったレベルのことではありません。
また、一般論として、護憲派は、どちらかといえば、旧世代に多いということを聞きます。もしかして、若いころの身に付いた考えの”惰性“、あるいは、安倍首相に対する単なる反発ということはないでしょうか?
もう一点。昨日の講義の最後で、わたしは、平成天皇の退位と令和天皇の即位に触れました。お二人のお言葉からつくづく思ったのは、「あぁ、この人たちは、存在そのものが、(生まれながらにして)憲法に依存しているのだな」ということでした。
そして、トークの最後の締めくくり――
「何はともあれ、新時代です。元気を出して、Let’s restart」
それが(いまや世界で唯一、日本人だけが体験できる)「改元」ということの意味だと思います。
(以上、わたしの最近の思考、そして、活動の一端として報告します)
憲法記念日によせて
ちょっと古い話になりますが、3日は、憲法記念日でした。
その前日、たまたまなのですが、チャイハナトーク「世界はいま」で、日本国憲法(とくに9条)を取り上げました。
1952年4月28日、サンフランシスコ講和で(占領から解放され)主権を回復してからの日本は、基本的に、「<平和憲法+日米安保>体制」でやってきた。これは、憲法と日米安保を不可分のセットとする、実質的には半独立(半主権)の仕組み。これまではそれでよかったにしても、米国が世界政治から後退傾向を示し、中国が強大化してきたいま、この体制やその基礎となっている日本国憲法について考え直すことが必要ではないか――。
そんな考えです。2日のトーク「世界はいま」に沿って説明してみます。
その前に、一言触れておくと、このトークは毎月、第1木曜の午前に、先月(今回でいえば4月)の国際ニュースを中心に解説(というより話題提供)をしているものです。チャイハナを開く前、NHKカルチャーセンターで行っていた講義を移したものなので、10年以上続いていることになります。心から感謝していることですが、NHK時代から参加していただいている方も数人いらっしゃいます。
1) トークでまず取り上げたのは、4月28日という日付です。
67年前1952年のこの日にサンフランシスコ講和条約が締結されました。
別のいい方をすれば、45年8月の敗戦以来、連合軍の占領下にあった日本は、この日、あらためて主権を回復しました。主権回復というのは、最高権力が、連合国最高司令官(総司令部)から日本国民に移ったという意味です。戦後日本の「独立記念日」といってもよいでしょう(註、72年まで米軍占領下におかれた沖縄には「屈辱の日」です)。
しかし、「憲法記念日」や「こどもの日」はあっても、「主権回復の日」という記念日はありません。「主権回復」というのは、いいかえれば「独立」ということ。しかし、そう考えることができない事情があった、とわたしは解釈しています。
というのは、4月28日には、もうひとつ重要な意味があるからです。日米安保条約が発効した日だということです。51年9月8日に吉田茂が調印し、52年4月28日、三℉蘭シスコ条約が調印された、その日に発効しました。
このふたつの組み合わせですが、この日以後の日本の根本は、次の定式で表されるとわたしは考えています。
<平和憲法+日米安保>体制 ・・・・@
冷戦の時代、西側に身を置きながら「非武装」を守ろうとするなら、防衛はよそに(つまり米国に)頼るしかないという判断は、仕方のないものだったでしょう。
もちろん、当時の左翼が主張したように、「非武装中立」という位置取りも考えられます。しかし、手前勝手にできることではないし、現実的な選択とは考えられません。
一方、日本国憲法は、46年11月3日に公布され、47年5月3日に施行されています。占領時代です。九条については、発案者が日米どちらであったとしろ、「二度と真珠湾攻撃のようなことはさせない」という占領軍(最高権力)の意思と、「戦争なんてアホくさいことは二度とご免だ」という、敗戦と戦争の悲惨を体験した日本側の想いが結合した結果として理解できます。
繰り返すと、52年4月28日、日本国民は表面上、主権を回復しました。しかし、同時に日米安保を受けいれたことで、実質的には「半独立」という状態だった、といえます。「主権回復」を強調すれば、その「半独立」がなおさら強く意識されます。
2) <平和憲法+日米安保>体制@は、東西が厳しく対立した冷戦時代、日本としては、止むを得ない選択だったのだろうという考えを記しました。しかし、そのような「半独立」状態を、いつまで、続ける必要があるのか?
この体制@が意味するのは、平和憲法と日米安保は一組のセットであり、片方だけでは、「体制」そのものが成立しないということです。平和憲法を護ろうとすれば日米安保は欠かせないし、他方、改憲・再武装の立場に立てば、安保は不要です。
ところが、わたしたちが繰り返してきた議論では、左は「日米安保反対」をいいながら護憲を主張し、右は「改憲」をいいながら日米安保に頼る――ある種の「ねじれ」があったように思えます。
なぜ、そんなおかしなことになったのか?
これは、疑問にとどめます。
3) 平成の30年間は、「脱冷戦」の30年間でした。この30年間の経験をどう受け止めるか?
平成元年は、1989年1月8日に始まります。
ベルリンの壁が崩壊するのが、同年11月。暮れの12月には、米ソがマルタ会議で正式に冷戦の終結を宣言します。平成は「脱冷戦」とともに始まりました。
さて、この「脱冷戦」の30年間で世界はどう変わったか?
平成元年ごろ、盛んにいわれたのが、「日米欧・三極時代」ということでした。
時代はかなり下がりますが、2009年2月、オバマ大統領(当時)の就任式に臨んだ麻生首相(当時)は、こんなことをいっています。
「(世界には)数多くの問題があるが、世界第1位、第2位の経済大国である日米が協力して取り組まなければならない」
この翌年(2010年)、GNPで中国に抜かれたことを考えると、とんでもない思い上がりですが、そのころはまだ、日本の最高指導者ですら、そんなことを考えていたのです。
平成時代が終わったいま思うと、この30年間の世界の大まかな変化として指摘できるのは、次の二点です。
まず、30年前に冷戦終結のころ、世界をリードするだろうといわれていた日米欧の三極がそろって、縮みました。とくに沈んだのが、日本です(データは省略)。欧州も、英国の離脱問題などゴタゴタしています。
重要なのは、米国の沈み方です。「冷戦の勝者」として世界に君臨するはずだったのに、いまは、「アメリカ第一」をいわなければならない状況です。「攻め」から「守り」に転じたともいえるでしょう。
第二の変化は、中国の伸長です。
これについては、後で説明します。
4) この「日米欧の三極が縮み、中国がのしてきた」、時代の変化にどう対応するか?
それが、いま始まった令和の時代の課題だと思います。
まず、「縮んだ(縮もうとする)米国」に対してどう向き合うか?
パックス・アメリカ―ナの時代なら、「大国」米国を受容するか、反発するか、いずれにしても、対応はシンプルでした。しかし、「(縮もうとする)大国」相手となると、話が厄介です。「どうぞ」と受け入れると、日本は<憲法+日米安保>体制@の一方を欠くことになります。この体制を維持したいのであれば、「そこをなんとか、頑張って」と米国を引き留めることが必要です。
次に、「力をつけた」中国に対してどう付き合うか?
彼の国が「力をつけた」内容は、次の三語で表現できると思っています。「強力・金満・強権」の三語です。
まず、「強権」――。考えてみると、マルクス・レーニン主義の「労働者独裁」は権力奪取の方法論でした。権力を獲得し、国家という集団を運営する方法論ではありません。権力を獲得した共産党が、「労働者独裁」の方法論に従うなら、党による「強権」は仕方のないことです。避けられない体質といってよいでしょう。
「金満」――これは、いちいち言う必要はないでしょう。一帯一路でばらまいているし、市場としても、製造工場としても、日本やアメリカにとっても、経済的に一定の欠かせない位置を占めています。
「強力」――は、もちろん軍事力のことです。この国の軍事力強化には、明確な問題があるとわたしは考えています。「台湾解放(奪取)」という国是とつながっていることです。
「ひとつの中国」という原則がある限り、チベットや新疆ウイグル地区などを含めた、あの大領域の権利を主張しようとするなら、「台湾解放」の旗は降ろせません。また、共産党支配は国共内戦の結果であり、台湾問題はその内戦の延長です。すると、「台湾解放」は、そのまま政権の正統性の問題ということになります。
しかし、「台湾解放」は、現代にあっては、領土の要求そのものです。そのような目的をもった軍事力が防衛的だとみることはできません。明確な「攻撃目的」をもつ、即時的軍事力です。チャンスがあれば、実力行使に出るのが当然です。
そのような中国をどう評価するか?
どう付き合うか?
あの国の望む、「攻撃のチャンス」をあたえてよいのか?
それとも、戦争の防止を優先するか?
近隣国として、問われる課題だと思います。
5) 見る角度を変えます。
「前項の目的を達するために」という制約はあるにしても、「交戦権」を否定した憲法9条は、宇宙戦争やサイバー戦争がいわれるようになった、現代の戦争に対応しているでしょうか?
わたしには、そうは思えません。
交戦権とはなにか、という法律論が必要でしょう。しかし、わたしにその能力はないので、感覚で話します。わたしには、九条は、領土を奪い合って、小銃を手にした兵士らが最前線で激闘を繰り返した、旧時代の戦争を前提にしているように思えます。
例えば、電力や交通網の破壊といったサイバー攻撃を考えてみます。これは「武力」でしょうか? これを「防ぐ」のは、多分、大変なことです。手っ取り早いのは、「反撃」という攻撃手段を持つことでしょう。そういう点についても、「武力」として手を縛る必要があるでしょうか?
以上、2日のトーク「世界はいま」で、たまたまなのですが、67年前の4月28日という日付に拘泥したことで考えついた、わたしなりの「日本国憲法論」です。立論の各論にはいろいろ問題があるかと、自分でも思っています。しかし、時代の変化に合わせて、国の在り方の根本<憲法>を考え直すのは大切なことだし、いまがそのチャンスなのかもしれないという、わたしの考えはご理解いただけると思います。
念のためですが、わたしのいう「憲法を考え直す」は、決して「自衛隊を明記する」といったレベルのことではありません。
また、一般論として、護憲派は、どちらかといえば、旧世代に多いということを聞きます。もしかして、若いころの身に付いた考えの”惰性“、あるいは、安倍首相に対する単なる反発ということはないでしょうか?
もう一点。昨日の講義の最後で、わたしは、平成天皇の退位と令和天皇の即位に触れました。お二人のお言葉からつくづく思ったのは、「あぁ、この人たちは、存在そのものが、(生まれながらにして)憲法に依存しているのだな」ということでした。
そして、トークの最後の締めくくり――
「何はともあれ、新時代です。元気を出して、Let’s restart」
それが(いまや世界で唯一、日本人だけが体験できる)「改元」ということの意味だと思います。
(以上、わたしの最近の思考、そして、活動の一端として報告します)
2019年02月18日
昭和・歌の会
誰でも持っている、歌を巡る思い出。
それを語り合い、その歌をみんなで歌う。そんな会合をもちたい
――80歳を過ぎた(そして、とても元気な)野澤節郎さんの提案です。
題して「昭和・歌の会」。
もちろん、明治、大正の歌も構いません。
急ですが、23日午後2時から開きます。
飛び入り歓迎。
チャイハナ光が丘(070−6559−3933)に寄ってみて下さい。
それを語り合い、その歌をみんなで歌う。そんな会合をもちたい
――80歳を過ぎた(そして、とても元気な)野澤節郎さんの提案です。
題して「昭和・歌の会」。
もちろん、明治、大正の歌も構いません。
急ですが、23日午後2時から開きます。
飛び入り歓迎。
チャイハナ光が丘(070−6559−3933)に寄ってみて下さい。
2019年02月11日
オープンボイス合同コンサートに出演しました
2019年02月08日
「インドネシアのいま」(平野慧さん)
ジャカルタ新聞記者・平野慧さんのチャイハナトーク「インドネシアのいま」は本日、終わりました。(明日、9日ではありません)
最近の日本企業の進出具合、4月の大当郎選挙のことなど、盛り沢山で、みんな大満足でした。
実際に、息子さんがジャカルタで起業しているというご両親、それに、前世紀末、わたし自身がジャカルタで記者をしていたころの金融マン、出版社めこんの研究会仲間など、いろいろな方が見えたのも、収穫でした。
もちろん、昨日の(わたしの)「世界はいま」に出ていただいた方々には、連ちゃんでおいでいただいたわけで、ただ心から感謝するのみです。
なお、明日9日(土)は、チャイハナ光が丘はお休みにします。
ボイストレーニングの講師エメ先生のコンサート(於 四谷天窓コンフォート)に出演(?、でも、ほんとです)しなければならないからです。
「昭和の歌」より難しい歌です!
最近の日本企業の進出具合、4月の大当郎選挙のことなど、盛り沢山で、みんな大満足でした。
実際に、息子さんがジャカルタで起業しているというご両親、それに、前世紀末、わたし自身がジャカルタで記者をしていたころの金融マン、出版社めこんの研究会仲間など、いろいろな方が見えたのも、収穫でした。
もちろん、昨日の(わたしの)「世界はいま」に出ていただいた方々には、連ちゃんでおいでいただいたわけで、ただ心から感謝するのみです。
なお、明日9日(土)は、チャイハナ光が丘はお休みにします。
ボイストレーニングの講師エメ先生のコンサート(於 四谷天窓コンフォート)に出演(?、でも、ほんとです)しなければならないからです。
「昭和の歌」より難しい歌です!
2019年02月01日
「映画音楽さわり集」
昨日(31日)開かれたチャイハナトーク「映画ポスターで振り返る青春」(講師・芳野健二さん)で紹介された映画ポスターの「極く」一部です。
ブリジット・バルドー、ヘップバーン、ワイズミューラー、チャップリン・・・そして・・・またそして・・・懐かしい名前が続々と飛び出しました。
好評につき、次回の企画が決まりました。
今度は、「映画音楽と映像(映画ポスター)」
ポスターに合わせて、その映画の音楽のさわりを聞くーー。
(その映画のポスターを見ながら)「映画音楽さわり集」ですね。
「100曲ぐらい出せるけど・・・」と芳野さんは話していました。∔
3月7日午後2時から、と決まりました。
乞うご期待!
ブリジット・バルドー、ヘップバーン、ワイズミューラー、チャップリン・・・そして・・・またそして・・・懐かしい名前が続々と飛び出しました。
好評につき、次回の企画が決まりました。
今度は、「映画音楽と映像(映画ポスター)」
ポスターに合わせて、その映画の音楽のさわりを聞くーー。
(その映画のポスターを見ながら)「映画音楽さわり集」ですね。
「100曲ぐらい出せるけど・・・」と芳野さんは話していました。∔
3月7日午後2時から、と決まりました。
乞うご期待!
2019年01月31日
映画ポスターで振り返る青春
「映画ポスターで振り返る青春」(講師 芳野健二)
今日、31日(午後2時)のチャイハナトークです。
(2月は逃げる、3月は去る、1月はどういったでしょうか? いつの間にか、月末です。慌てて「広報活動」です)
前に、講師の芳野さんから名刺を頂きました。
裏に、こんな印刷があります。
「懐かしの映画ポスター
旅のスケッチ・写真
大道芸
ゴルフ・サポート
美術館案内
Discover Tokyo」
超大手製鉄会社に勤めていた、と伺いました。
いったい、どういう方なのでしょう?
別件です
「(著作権の切れた=古い)映画を見る会」をしよう!
そんな提案も、受けています。
DVDを何十本もお持ちだ、と聞きました。
この提案についても、話し合いたいと思っています。
(チャイハナ光が丘 亭主)
今日、31日(午後2時)のチャイハナトークです。
(2月は逃げる、3月は去る、1月はどういったでしょうか? いつの間にか、月末です。慌てて「広報活動」です)
前に、講師の芳野さんから名刺を頂きました。
裏に、こんな印刷があります。
「懐かしの映画ポスター
旅のスケッチ・写真
大道芸
ゴルフ・サポート
美術館案内
Discover Tokyo」
超大手製鉄会社に勤めていた、と伺いました。
いったい、どういう方なのでしょう?
別件です
「(著作権の切れた=古い)映画を見る会」をしよう!
そんな提案も、受けています。
DVDを何十本もお持ちだ、と聞きました。
この提案についても、話し合いたいと思っています。
(チャイハナ光が丘 亭主)
2019年01月22日
期日の修正 チャイハナトーク「インドネシアのいま」平野慧さん
大至急 お知らせです
チャイハナトーク「インドネシアのいま」(講師平野慧さん)は、
2月8日(金)に開催します。
カレンダーには、2月9日(土)とありますが、これは間違いです。
インドネシアに興味をおもちのみなさま。
どうか、よろしくお願いします。
チャイハナ光が丘亭主 吉村文成
チャイハナトーク「インドネシアのいま」(講師平野慧さん)は、
2月8日(金)に開催します。
カレンダーには、2月9日(土)とありますが、これは間違いです。
インドネシアに興味をおもちのみなさま。
どうか、よろしくお願いします。
チャイハナ光が丘亭主 吉村文成