菅義偉総理の記者会見(28日)を見た。
何とも言えない違和感があった。
五輪・パラリンピックについて、総理は、こんなことを話した。
「外国人観客は受け入れない。大会関係者も絞り込む。(入国した大会関係外国人と)国民との接触を防止する。報道陣を含め関係者は組織委が管理する宿泊先に集約し、行先は事前登録された外出先に限定、移動手段も専用のバスやハイヤーに限定する。関係者と一般国民が交わることがないよう動きを分ける。(彼らが)外出、観光することはない」
違和感のことが気になって、「近代オリンピックの父」クーベルタンについて調べた。彼が抱いたオリンピックの理想は、こういうことだった。
[スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」(日本オリンピック委員会「オリンピズム」から)
菅首相が描いた、「外国人関係者と一般国民が交わることがないよう動きを分けた」五輪が、オリンピックに値するだろうか?
――それこそが、国民の多くが東京五輪に抱く疑問だろう。
記者会見で尋ねて欲しかったのは、そのことだ。
「(総理の考える)オリンピックとは何なのか? (選手たちと)一般国民との接触を断ってまで、いま、開催することの意義は何か?」
総理には、そのことを説明してほしかった。
そこのところが納得できれば、わたしは五輪開催を断固、支持する。
ところが、現実の記者会見は「安全論」で終始した。総理も記者たちも、クーベルタンが抱いた「五輪の理想」には触れもしなかった。
そのことが示すのは、「現代」オリンピックが、クーベルタンの始めた「近代」オリンピックとは別物に育っている、だということだろう。
端的に言えば、商業主義のオリンピックだ。「儲けよう」と誘致する、開催する。
そういうことなら、徹底的に「数字」を議論してほしかった。
開催したら、どれくらいの損失で済むのか?
取り止めた場合の損失は、どれほどか?
そういう議論のないメディアと政権---。
いまのこの国の「中途半端」の原因のひとつではないだろうか?
@店長の前職(大学教授)時代の担当ゼミ生の『Yゼミ卒業論文集;先ごろ若者気質』
Aフィールドワークで地域の方々と資料をまとめた『瀬田国民学校 学級日誌』、
Bチャイハナの日々 です。
@ではありのままの若者像を、Aでは戦争の時代にあっても明るく過ごした子どもたちの様子を、Bではチャイハナの日々の様子をお伝えしています
2021年05月29日
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