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@店長の前職(大学教授)時代の担当ゼミ生の『Yゼミ卒業論文集;先ごろ若者気質』
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Bチャイハナの日々 です。
@ではありのままの若者像を、Aでは戦争の時代にあっても明るく過ごした子どもたちの様子を、Bではチャイハナの日々の様子をお伝えしています

2019年12月05日

エッセイ「モーツアルトとベートーベン」

「練馬エッセイクラブ」―-―大げさなネーミング。チャイハナ光が丘で、2カ月に1度、開催している会合です。
決められたテーマを主題に、(800字あるいは1600字前後の)原稿を前もってメールでメンバーに送っておき、翌月の開催日に議論にかけます。
次回は、12月は14日(土)。テーマは「音楽」。締め切りは、11月末でした。
わたしの提出した原稿を紹介してみます。
書き終わって、意外に社会性のある原稿だな、と気がついたからです。
チャイハナの活動報告の意味もあります。
内容は、実は、単純なことです。
「なんでもいい(いくつになってからでもいい)、芸事に取り組んでみましょう。きっといいことがありますよ」
無論、すでに取り組んでいる方々にはエールです。
以下、そのエッセイ(考えたら、タイトルだけ壮大に「音楽」)

モーツアルトとベートーベン
                           吉村 文成
 「このごろピアノにはまっています。もっぱらモーツアルト・・・それしか弾けない」
 ごく最近のことである。大学入学のときのクラス会があった。そのときのかつての級友の近況報告である。わたしと同窓だから、八〇歳近い。
 モーツアルトしか弾けない?
 それって、初歩のことなのか?
 帰って、そのかつての級友のことを家内に話した。
 「しか弾けない”じゃないわね。モーツアルトに、はまっているということよ」
 家内の言では、モーツアルトは天才である。頭に浮かんだ曲想が、そのまま名曲になっている。手書きの楽譜に、直しが一カ所もない。その比較でいうと、ベートーベンは「苦悩の人」だ。曲想を徹底的に吟味する。

 わたしは、東京・練馬区で小さな喫茶のマスターをしている。裏通りで客も少ない。そのせいでというわけでもないが、いろいろな文化教室の会場にもなっている。朗読、歌声、ボイストレーニング、エッセイなどだ。
 そんな文化教室の先生方から学ぶことが、少なくない。
 朗読の先生は、プロのアナウンサーである。手取り足取りという感じで、生徒に向き合う。
彼女が求めるのは、まず、読む文章についての理解だ。何が主題か、どこが大切か、どんな気分の文章か、明るいか暗いか、一つひとつのセリフにどんな気持ちが込められているか・・・次から次へと、彼女は問いかける。
そして、理解したことを、そのまま声に移すことを求める。
それが、限りなく難しい。先生を前にして、わたしたちは自分の声を自由に操れない不自由を痛感する。
「理解して、表現する。そのことの難しさ」――それこそが、わたしが彼女の指導を通して学んだことだ。
「理解と表現」は、あらゆる「芸」に通じる基本だろう。
画家は、何を描くかを理解し、それを絵にする。音楽家は、自らの想いを理解し、音符にする。あるいは、音符に込められた想いを理解し、声や音に変える。俳優は役を理解し、演技する。生け花や茶道だって同じだろう。花や「場」について理解し、その理解を表現する。
文章を書く場合も同じことがいえそうだ。書きたい内容を「理解」する。その理解した内容を、言語で表わす。
その「表わす」というところが、限りなく難しい。

そんな風に考えていたところに、モーツアルトの登場である。想いがそのまま名曲になるという。どういうことなのか?
チャイハナで歌声喫茶を指導している先生に尋ねた。答えは、こうだ。
「モーツアルトは、とにかく音そのものが美しいのよ。そして、繊細。だから、弾き間違うと、すぐわかってしまう」
モーツアルトは、絵でいえば、色や光に美を見出す抽象画家ということらしい。比較して、ベートーベンは「見えるもの」の真実を追求する具象画家ということか。
モーツアルトとベートーベン、抽象と具象。共通する要素は何か。
考えるうちに行き着いたのが、「感動」ということだ。
モーツアルトとその仲間は、音や光そのものに感動できる、即興的な感性の持ち主なのだ。他方、ベートーベンとその一党は、最初の感動に磨きをかけ、それが深まってゆくプロセスにもまた感動する人たちなのだろう。
「感動」を柱にすると、諸々の芸についての見方も変わってくる。いずれをとっても、本当に学ぶのは、「感動を発見し、それを表現する技法」なのだ。 
表現は、いいかえればプレゼンだ。他者を相手に、有形、無形いずれにしろ、なんらかのかたちをとる。そして、少なくとも凡人の場合は、結果としての「かたち」に、必ず不満が残る。
このごろ、なんとはなしになのだが、年齢を考えるようになった。「残された時間が少なくなった」という感覚である。その限られてきた時間のごく一部でも、「感動」を意識しながら暮らせたら、どんなに素晴らしいだろう。
「表現」は無論、未完で終わるだろうが、それは励み・・・でよい。
           (29x58行=1682字)

posted by chaihana at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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