このブログはおもに3つのテーマがあり

@店長の前職(大学教授)時代の担当ゼミ生の『Yゼミ卒業論文集;先ごろ若者気質』
Aフィールドワークで地域の方々と資料をまとめた『瀬田国民学校 学級日誌』、
Bチャイハナの日々 です。
@ではありのままの若者像を、Aでは戦争の時代にあっても明るく過ごした子どもたちの様子を、Bではチャイハナの日々の様子をお伝えしています

2019年11月03日

下山茂さんのお話し

「イスラムというのは『型の宗教』です。人間は弱い、『型』が導くのです」
「信仰というのは、花を育てるように、こころの中に水を撒いて育てる努力をする。そうしなければ、育ちません。それが、礼拝に立つということです」
「私がもしイスラム教徒になっていなかったら、いまごろは寂しい、『孤独な老人』」ですね」
「イスラムの統治は、『緩やかな統治』とでもいえばよいのでしょうか。近代的なネーションステート(国民国家)とは違います」
――示唆することの多い、珠玉のようなことばの連続でした。いろいろ考えさせられました。
 東京ジャーミイ・トルコ文化センター広報出版担当、27歳でイスラム教に入信したという、下山茂さんの講演です。
DSCN6417.JPG
 1日夜、文京区の湯島そうごうセンターで開かれた「いつもの会」です。主催は、「めこん」という、アジア関係専門の出版社。わたしも、『インド同時代』(1985年)、『スハルト帝国の崩壊』(1999年)の二冊を出版していただいています。
 「いつもの会」というのは、その「めこん」が毎月一度、アジア関係で造詣の深い方、現地に詳しい方などをお招きして開いている講演会です。
 さて、下山さんのお話し。
 まず「型の宗教」ということ。こう続きます。
 「モスクに入るときは、足を洗う。右足から入る。一日に五回礼拝に立つ。理由はありません。そういう『型』です」
 「“厳しい”と感じるかもしれない。しかし、『型』が人間を(ある方向に)導くのです」
 「武道や茶道、あるいは、行儀作法・・・素晴らしい『型』を生んできた日本人。通じると思います」
 次、『育てる努力』ということ。
 下山さんは何度か、(謙遜を込めて)「わたしはセルフィッシュ(自己中心)な人間ですから・・・」ということをいいました。
 「育てる努力」というのは、信仰に限りません。いろいろな芸事、能力・・・なんであれ「育てる努力」は、「自分が得する」話です。セルフィッシュ上等!と思いました。
 次、「淋しい、『孤独な老人』」 
 これは、「イスラム教徒は、集まって礼拝をします」ということばの続きでした。
 ハッとしました。チャイハナにいらっしゃる高齢の方々・・・いろいろな宗教を含めて、何かの団体に属している方が多いという感じを持っていました。そして、一様に明るい。なぜ、そうなのか? その理由を、説明していただいたような気がしたのです。
 老後をどう過ごすか?
 このごろは、いろいろな書籍まで出る大問題です。
 まず、自分に合いそうなコミュニティを探してみる。そこで行われている『型』をまね、「水をやって」育ててみる・・・いくつからであろうと、老後の過ごし方としてトライしてみる値打はあるように思います。
posted by chaihana at 09:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記
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