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@店長の前職(大学教授)時代の担当ゼミ生の『Yゼミ卒業論文集;先ごろ若者気質』
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Bチャイハナの日々 です。
@ではありのままの若者像を、Aでは戦争の時代にあっても明るく過ごした子どもたちの様子を、Bではチャイハナの日々の様子をお伝えしています

2019年10月17日

信玄の霞堤

今回の台風19号、被害の大きさ。
被災した方々には、こころからの同情を感じますが、それとは別に、何ともいえない、違和感がありました。
あるネットで伝えられたエネルギー文明研究家。田村八州夫さんの「解説。。。主張?」を読んで、納得がいきました。信玄の「霞堤」に言及しています。戦後の「治水」そして「都市開発」が基本のところで間違っていたようです。
なお、田村さんは、石油資源開発会社のOB.そして、個人的には、大学のクラブ活動(京都大学探検部)の後輩です。
以下、田村さんの「主張」を紹介します(一部省略)。

起こるべくして起こった災害だ.
自然に逆らっても巨大堤防はいつか破られ、何倍もの力でしっぺ返しされる。
大事なことーー脊梁山地から海に至る流域全域で、自然の力に逆らわずに、「自然の畏敬だけでなく畏怖とも共生する知恵>」だ。
河川は生き物であり、氾濫域が必要であり、如何に上手く氾濫させるか」である。
そんな知恵を、日本人は弥生時代から戦前まで持っていた。
戦国時代、武田信玄は荒れ川を制御するのに「霞堤」を考案、施工した。
増水を遊水地に流し、減水したら自然に本流に逆流する工法で、洪水を防いだ。ついでに遊水地に土砂が溜まり肥沃な田圃になる、効果があった。
元々、川があれば、氾濫原ができる。
弥生時代から水田適地として稲作に利用し、集落は高台にあった。平安京は、巨椋池低地の上流に、平城京は、旧奈良池低地の北側高地に作られた。難波宮は、上町台地に作られ、東の河内低地は淀川や大和川の氾濫原。水田適地だったのだ。

いま、日本の河川のほとんどは、氾濫原をもぎ取られている。
しかも三面コンクリート貼りだ。
もう一度、川に氾濫原のある自然の状態に返すことが必要だ。
100年先の子孫のことを考えた国土戦略が求められる。
posted by chaihana at 18:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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