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@ではありのままの若者像を、Aでは戦争の時代にあっても明るく過ごした子どもたちの様子を、Bではチャイハナの日々の様子をお伝えしています

2016年07月15日

ラダックの旅(2) 「シャンティ・ストゥーパ」と中村行明師


なぜ、ラダックに行ったか?
古い知人の中村行明師が中心都市レーに建立した「シャンティ・ストゥーパ」の建立25周年記念法要会に参列するためです。
「シャンティ」は、サンスクリット語で「平安」、ストゥーパは、仏塔、日本語でいえば、「卒塔婆」です。お釈迦様の遺骨の一部とか、死後も残った歯や毛髪を収めた塔です。(世界中の「ストゥーパ」のお釈迦様の残された骨の量を計算すると、2tかそれ以上にもなる、とのことです)
わたしが中村師と知り合ったのは、いまから30年以上も前、朝日新聞ニューデリー支局長をしていたときです。
わたしは1980年2月から84年2月までのまるまる4年間、ニューデリーに滞在しました。ちょうど、旧ソ連軍がアフガニスタンに侵攻して大騒ぎだったころです。
そのころ、ニューデリーの在留邦人は、赤ちゃんを入れても300人以下。いまのようにインターネットといった通信手段のない時代です。
日本の主な日刊紙や週刊誌、そして、テレックスによる世界各地の情報のそろった新聞社の支局(兼住居)は、情報を求める在留邦人や留学生、あるいは、日本に関心のあるインド人学生などの溜まり場でした。
そういうとき、近所に仏教僧として住んでいたのが、20代後半の中村師です。しばしば支局に来ていました。
わたしも散歩の折など、彼の建てた小さな仏堂にお参りしたことがあります。そのことは、家内もよく覚えていました。
中村師の仲介で、北方のダラムサラにいって、ダライラマ14世と単独会見したこともあります。
その中村師が、いつの間にか、レーに大きな仏塔を建てていたのです。
DSCN1039.JPG
 中村師は「歌う仏教僧」です。高校時代、片耳を痛めたというぐらい、ジャズにのめりこんでいました。いまも、ギターを手に自作の歌を歌い続けています。チャイハナ光が丘で、中村師に音楽会を開いていただいたことがあります。
yjimage[1].jpg
 「シャンティ・ストゥーパ」25周年記念法要会のお誘いをお断りする理由はありません。
posted by chaihana at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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