先週、たった4日間だけですが、岩手県に行っていました。
しばらく前からあっちにいる友人が、いいました。
「さきの戦争は・・・」という話が出たんだって。どの戦争だと思う?
太平洋戦争でしょう。いや、戊辰戦争かな?
「それが・・・鎌倉時代の戦争だっていうんだよ」
ああ、義経とか頼朝とかが出てきた・・・?
驚きました。
21世紀のいまも、(日本国の誰かにとっては)奥州藤原氏が滅ぼされた(13世紀の)「あの戦争」の「戦後」なのですね。
毎月、月初めに、近くのカルチャーセンターでニュース解説もどきをしています。
凄く負担なのですが、来月のテーマを決めました。
「歴史ーー語るのは誰か?」
歴史とは、物語(ストーリー)です。
視点を変えると(語り手を変えると)、物語の全体が変ります。
例えば、ギリシャ債務危機、
債権者の目で語るか(それがいまのメディアです)
債務者の目で語るか?
その他にも、安倍談話、沖縄・辺野古休戦・・・この主題で語れることが、まだまだ、ありそうです。
話を歴史に戻します。
基本的に、歴史の語り手は(日本書紀にさかのぼっても分かるように)勝者です。
そして、日本は手近な、先の戦争では敗者です。
そして、今日、戦後70周年の諸々の報道を見ながら思ったことです。どうして・・・?
どうして、(敗者である日本で)勝者のストーリーに立脚した議論しかできないのでしょう?
負けたことはチャラにして、その後・・・という議論が、どうしてできないのでしょう?
現実に、いま私たちにできることは「その後」だけです。
そこのところを(多分わざと)無視して、取り返しのつかない「あの戦争」だけにこだわる。
無理筋と違いますか?
蝦夷は、大和朝廷にしてやられました。
藤原氏は、頼朝にしてやられました。
でも、してやられたから、黙っていなければならないのでしょうか?
蝦夷の論理、藤原氏のストーリーもあっていいんではないですか?
以上、戦後70年安倍談話をめぐる諸報道を見ながら、(ちょっぴり)思ったことです。