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@店長の前職(大学教授)時代の担当ゼミ生の『Yゼミ卒業論文集;先ごろ若者気質』
Aフィールドワークで地域の方々と資料をまとめた『瀬田国民学校 学級日誌』、
Bチャイハナの日々 です。
@ではありのままの若者像を、Aでは戦争の時代にあっても明るく過ごした子どもたちの様子を、Bではチャイハナの日々の様子をお伝えしています

2020年08月11日

行き詰った習近平、「戦争」だって、という夏の夜の夢

「物凄いことになる! 中国・習近平体制の行き詰まりは、(日中)戦争を招くかもしれない」――そんなことを、わたしの国際ニュース解説「世界はいま」(6日)で話してしまいました。突飛な考えのようですが、わたしからみると、常識的に考えてあり得る見通しです。そのことを説明してみます。

 まず、「習近平政権が行き詰っている」という判断。
 新聞、テレビは「ますます安泰」と伝えているのですが、わたしには信じられません。
 理由の第一は、新型コロナ、長江流域一帯を始め全国各地の大洪水、蝗害(バッタ)、地震(唐山)・・・と災害が相次いでいることです。トランプ米大統領が仕掛けてくる経済制裁も、中国民衆からみれば、一種の災害でしょう。
 「どうして、こうも災害が続くのか?」――中国人なら、だれでも抱く疑問でしょう。
 「指導者が悪いからだ!」――この答も、ごく自然なものです。
 「災害は、天が不徳な為政者に下す罰である!」――「天譴論(てんけんろん)」といいますが、むかしからある考え方です。
では、どうして、そんな声が報道されないのか? 
これも、分かり切ったことです。
なにしろ、AIを駆使した、厳しい監視社会です。「災害は、駄目な指導者が招いた天罰だ」などと口走ったら、間違いなく監獄行きです。正面切って口に出せることではありません。しかし、こんな災害続きの中で、人々がなお「習近平・万歳」だと考えるのは、無理があり過ぎます。
「面従腹背」は、監視社会で生きる常識です。「話すこと」と「腹の中で思っていること」は全然違っているのが当たり前です。若い記者たちには、言質にいても、そのあたりのところが読みにくいのではないでしょうか?
庶民感情はしかし、体制にとっては、たいした問題ではありません。ほんとうに重要なのは、体制そのものを支えるエリートたちの動向です。これまた、庶民に輪をかけた「面従腹背」の塊です。「話すこと」と「思うこと」とは全然違うぐらいに考えるべきでしょう。
そのエリートたちが習近平支持でこり固まっているかどうか?
そんなことはあり得ない、というのがわたしの判断です。
「共産党一党支配」という統治の仕組みそのものが、一部のエリートの離反を内包しています。
共産党一党支配というのは、具体的には、共産党員というエリートが権力とそれに伴う利益(役得)を独占する仕組みです。その利益(役得)が家族や親族、友人などに分配されることで、広範な受益層が生まれます。一党支配の安泰を保証するのは、そんな受益層の広がりです。
重要なのは、権力と役得を約束する、「ポスト」です。「ポスト」がなければ、党員といえども、ただの人です。
したがって、「一党支配」政権は結局、政権党が、増加するエリートに対して十分なポストを供給できるかどうかにかかっている、ということになります。
ところが、これは「共産党支配」に限らず、古来のあらゆる専制国家についていえることなのですが、国が発展し、安定期にはいると、エリートの人数に比べてポストが不足してくる、そして、ついには衰退してゆく、というのが一般的な法則です。
共産党中国の場合ですと、1949年の建国からすでに70年余、改革開放が始まった1978年からでも40年以上が過ぎています。もうポスト不足の段階にはいっている、と考えてよいでしょう。
そうなると、ポストにつけない党員、あるいは、党員に匹敵する能力を自負する有資格者にしてみれば、体制そのものが癪のタネです。彼らのこころに「天譴論」が忍び込んでも不思議はありません。
なにかちょっとしたきっかけで、不満分子、不平分子として習近平政権に立ち向かう可能性を秘めています。
そんな官僚たちの不安を、「戦狼(wolf warrior)」と呼ばれる、中国外交官らの外交姿勢に感じました。
新型コロナ騒ぎ以来、中国に対する批判が各国で高まっていますが、それに対抗する中国・外交官らはまるで、任地国政府や国民に喧嘩でも売っているかのような激しさです。
どうして、そんなことをするのでしょう?
「外交」というより「内交」なのだと思います。
北京の中央政府に向けて、「ほら、わたしはいますよ。ちゃんと仕事していますよ」と、いわば「自分の存在証明」を送っているようなものです。
なぜ、そんなことをするのか?
北京政府が信じられなくなっているのではないでしょうか?
そうなると、外交官としての役割は犠牲にしても、「自分守り」にかけることになります。
「一党独裁」とは、「党」という私的(裏)組織の内部における上下関係が、決定的に重要な社会です。そこに生まれるのは、上位者の顔色ばかりうかがう典型的な「ヒラメ社会」です。
「上にはへつらい、下には威張る」――最近顕著な、中国当局の「空威張り」と「強権」もまた、習近平政権の方針というより、官僚たちの不安の表れのように思えます。
そんな官僚たちがいつ、どんなきっかけで手の平を返すか、知れたものではありません。
災害続きの世の中で、政権中枢にはさぞ不安なことでしょう。

次に、「日中戦争」の危機という問題に移ります。
 政権が必ずしも盤石ではない、人心が離れつつあると仮定すると、政権としては、人心を取り戻し、牽引力を回復する必要があります。
 どうすれば、そんなことが可能でしょう?
 手っ取り早いのは、力の誇示・・・具体的には「戦争」です。
 外国と実際に武力を交えるということになれば、人心は、賛否はどうであれ「敵対心」という一点でまとまり、高揚するでしょう。
 危ないのは、台湾、尖閣、南沙・・・そのいずれが狙われるだろう?
 そんなことを考えていました。
 そこに、「中国漁船数百隻が尖閣周辺海域に出漁してきそうだ」という産経新聞の報道(3日)です。
 「ああ、そうか、尖閣だったか」と思いました。
 考えてみると、習近平政権の立場から見て、尖閣ぐらい好都合な標的はありません。
 まず、相手側の日本は、その国民感情からして、武力で対抗してくることはないでしょう。せいぜいが、国際的な場で訴える程度のことです。対する中国政権としては、場合によっては戦争覚悟、いや、国民が高揚する分、ある程度武力を交えた方がありがたい、といったところでしょう。
 戦争をしたい側と、したくない(できない)側とでは、勝敗は、戦う前から分かっています。中国側としては、実質的な被害はまずないと見込めます。
 第二に、尖閣という舞台は、国民感情を掻き立てるのにぴったりです。
なにしろ相手は、日清戦争で台湾を奪った憎むべき侵略国です。いわば、かつての「屈辱」に「報復」を果たす――「中華民族の偉大なる復興」を歌い上げるのに、国民の喝采は確実でしょう。
 
 以上、コロナの最中の暑い夏の夜の悪夢で終わることを願っています。
 しかし、その一方で、尖閣に旗(標識)が立つ程度のことは覚悟しといた方がいい、という気持ちもあります。なにしろ「1992年領土法」は、尖閣も、西沙も、南沙も「中国の領土」と決めています。「決めたことは、(いつかそうなる)事実」というのは、彼の国の行動原理です。
posted by chaihana at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

迫水秀樹ギター弾き語り

迫水秀樹さんのギター弾き語り「希望の指揮者がうたう夜」
昨夕でした。
グイグイ、グイグイ・・・力いっぱい歌い、奏でる。
リズムで引き込む。
迫水さんとフアンのお客様たちとの一体感。
正直、「生演奏って、いいな!」・・・こころから感動しました。
迫水と客.JPG無論、この時世です。暑さもあります。
迫水さんは譜面台に、飛沫防止の透明ファイルをかけています。
お客様は、マスク着用、間をあけて、客数制限といった制約はあります。
窓は開けはなって、換気を図りました。
そんな、いろいろ面倒なことはあっても、「生演奏って、いいな」
迫水さんとわざわざ集まっていただいたフアンのみなさま、ありがとうございました。
迫水コンサート.JPG
posted by chaihana at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記