このブログはおもに3つのテーマがあり

@店長の前職(大学教授)時代の担当ゼミ生の『Yゼミ卒業論文集;先ごろ若者気質』
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Bチャイハナの日々 です。
@ではありのままの若者像を、Aでは戦争の時代にあっても明るく過ごした子どもたちの様子を、Bではチャイハナの日々の様子をお伝えしています

2020年06月19日

練馬エッセイクラブ「エッセンシャル:ウイルス」

19日は、隔月で開催している練馬エッセイクラブの例会日です。
スカイプ参加を含め、興味深い集まりでした。
あたえられたテーマ(主題)は、「ウイルス」。
わたしの原稿を紹介します。
(ただし、提出原稿を若干修正しています)
 吉村20年6月 テーマ「ウイルス」
  「エッセンシャル」ウイルス    吉村 文成

 四月中旬に一週間ほど入院した。時節がら「新型コロナ?」と心配されそうだが、そうではない。三年前との比較で心臓の肥大が分かったためだ。六本木にある、きれいな病院だった。
 入院中ある種、感動したのは、掃除のおじさんの働きぶりだった。病床周辺は無論、トイレ、廊下…毎日まいにち、きちんと汚れを拭きとっている。
 「エッセンシャル・ワーカー(欠かせない労働者)」――「コロナ騒ぎ」で知った、新しいことばである。平たくいえば、感染が広がるなかでも「休めない」労働者ということらしい。
「ああ、こういう人たちなのだな」と、その掃除のおじさんの仕事ぶりを見ながら、素直に思った。どちらかといえば、「影」の仕事だ。しかし、こういう人たちがいるから、社会は、なんとか回っている。
 エッセンシャルの反対語は、「不要不急」だ。具体的には、コロナ騒ぎで「出社に及ばず」とされた会社員や、休業を余儀なくされた業種を指す。たしかに、喫茶店や飲み屋も、あるいは、プロ野球や大相撲も「あってもなくてもいい」感じがある。わたしの運営する小さなコミュニティカフェも、その一味だ。
 そんなことを考えていたところに、フェイスブックで、若い友人がジャカルタから投稿しているのを見つけた。有名な楽器店の写真に、こんなコメントがついていた。
 「一日も休みませんでした。音楽は欠かせません」
 ガーンと頭を殴られたような気がした。
 考えてみると、世の中に「不要不急」な仕事(職業)などあるわけがない。いろんな「仕事」があり、そのネットワークとして「社会」がある。甲乙なし、現実に「ある」というだけで、あらゆる仕事が「エッセンシャル」だと考えるべきだろう。仕事に限らない。世の中に「ある」ものはすべて、まさにその「ある」という理由によって「エッセンシャル」だといえる。無論、新型コロナウイルスも、その例外ではない。
 たまたまなのだが、入院に際して、サルの研究で有名な動物学者・今西錦司の著書を持ち込んだ。こんな一節があった。
 「(生物社会は)利用できるものは、遊ばせておかない。すべて利用する」
 今西は、「棲み分け」という概念に立脚した、独自の進化論で知られる。ヒトは道具を使うことで多様な環境に適応したが、他の動物や植物は、自らの遺伝子を変えることで、新しい環境に適応する。それが、「新種」の誕生、つまり進化ということだ、と説く。無論、すでに数百万種類の動植物が先住している自然界だ。「新しい環境」といっても、せいぜいが「隙間=ニッチ」でしかない。
 この考えを新型コロナウイルスに適用してみる。コウモリか何かを宿主としていたウイルスが、ヒトの細胞の中に「まだ遊んでいる隙間」をみつけ、自らの遺伝子を変えて棲みついた、ということになる。そんな「隙間」を提供したヒトの側にも、この新型が生まれた「原因」がなかった、とはいい切れないだろう。
 人類社会は、繰り返し疫病の大流行を経験してきた。そして、そのたびに大きな「時代の転換」があった。見方を変えれば、行き詰った旧時代が疫病を呼び寄せ、新時代への転換をもたらした、と解することもできる。
 新型コロナウイルスがわたしたちに封じたのは、「動くこと」と「集まること」である。ところが、わたしにいわせれば、この二つこそが、いまの人類社会の根本原理だ。「より速く、より遠く」、そして「より多く」を目指すことで、少なくとも現代文明は発展してきた。
 ちょっと急ぎ過ぎたのではないか。がむしゃらに「動き(動かし)」「集まる(集める)」ことを目指してきた文明が行き詰り、ブレーキを求めた、ということも考えられるのではないか。
                  (35x49行=1715字)

posted by chaihana at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記